「幸せ」の定義や基準を持っていますか?

このブログの大きなテーマの一つは、
「幸せ」とは何か模索することです。
 
「青い鳥」のチルチルではありませんが、
私は「幸せ」の正体を求めて、
かれこれ3年以上もブログを描き続けています。
そして私にとっての「幸せ」を、だいぶ理解できるようになってきた次第です。
 
どうして私は「幸せ」を探し始めたのか?
 
それは、「幸せ」こそが、
「人生」の「本質」であり、「人生」の「解答」だからです。
 
「人生」の「解答」さえわかれば、
私は世界中のどんな金持ちよりもどんな有名人よりもどんな権力者よりも
「幸せ」になることができます。
 
私の考えでは、「人生」の「本質」も知らずに、
「人生」を苦しんで進むのは得策ではないのです。
なぜ人々は、目の前の「謎」を「考える」ことを「科学者」に任せ、
自身の大切な「人生」の「答え」を安易に「常識」に委ねるのか?
 
「考えるな!」と誰かに言われたのでしょうか?
 
きっと、学校の苦しい勉強を通じて「考える」ことに嫌気がさしたのか、
「考える」対象を受験勉強のような無味乾燥な問いのみに限定してしまっているのか?
 
「考える」ことをやめた大人達は、
「なんで勉強しないといけないの?」という子ども達からの
当たり前の質問にも満足に答えることができない。
 
それから大人達は、当たり前のこの質問にあえて正面から向き合わない。
「私達は、なぜこんなに頑張って生きているのだろう?」
その「答え」がわからなければ、
「人生とは、そういうものなんだ」と無理矢理思い込むしかない訳です。
しかし「答え」を持っていない人は、
変装したルパンを捕まえられない銭形警部のように、
目の前の「幸せ」を日々逃していることになります。
 
私は、これが学校教育の最大の弊害だと思っているのですが、
「答え」は客観的に一つしかないという思い込みは止めた方がいいです。
特に国語の問題。
例えば、「その人物がなぜそうしたのかを述べなさい」という質問。
なぜ、「答え」が一つだけなのでしょう?
文中には表現されていない個人のイマジネーションで出した「答え」はなぜ不正解なのですか?
 
受験勉強は、私達にこう言っています。
「答え」を、想像もしくは創造するな。
「答え」は、世の中に既にあるものから持ってこいと。
 
皆さん、「人生」においては「答え」に「不正解」なんてありません。
皆さんが一生懸命考えて出した「答え」は、
他の誰かが出した「答え」よりもあなたにとっては最も「正解」なのです。
 
エジプト神話に登場するスフィンクスは通りかかった旅人に「謎」を投げかけ、
答えられなかった者を食べてしまったと言います。
私達も、この「世界」に生まれて、
「幸せ」とは何か?という最大の「謎」に答えられないと、
魔物に「人生」を食い尽くされてしまいますよ。
 
さあ、「人生」最大の「謎」に恐れることなく、挑んでいきましょう。