「与える」のまとめ

こんな記事を見つけましたので、紹介します。
ヒトはやはり善意の生き物? - 阪大、幼児間の「社会間接互恵性」を確認マイナビニュース)
 
阪大で、こんな調査が行われたのです。
5〜6歳齢の幼児を観察対象とし、
その幼児の中で親切な行動が多い幼児12名を「親切児」として、観察を行いました。
その結果、親切児Aが他の幼児達に親切にしていると、
三者の親切児達から、より多く親切にしてもらえる傾向が高かったそうです。
また、相手の体に触ったり自分のものを見せたりする「親和行動」という
親しみを示す行動も多く受けるようになります。
なお、ここでの親切な行動とは、他の幼児が服のボタンを留めるのを手伝ってあげたり、
使っている玩具を貸してあげたりといったものです。
(詳しくは、上記リンク先記事をご覧下さい)
 
リンク先の記事でも言及していますが、
この調査結果から、「情けは人のためならず」が実証されたと言えます。
つまり、親切児Aの行う「利他行動」は、
特段見返りを期待して行われるものではありませんが、
巡り巡って直接親切を提供していない親切児Bから親切にされる可能性が高くなるという訳です。
「利他行動」を好んで行う幼児は、何の精神的投資もなく「幸せ」を得やすくなります。
「人に情けをかける」という行為は、「幸せ」な「人生」を模索する上で、
非常に重要な要素になることは間違いないのではないでしょうか?
 
もちろん社会人の世界は、幼児の世界ほど「お人好し」にできていません。
「キャッチセールス」や「いじめ」「ブラック企業」。
親切な人から搾取しようとする罠が、たくさん待ち受けています。
社会人になっても「親切」であり続けることは、はたして「幸せ」なことなのか?
 
私は、それでも「親切」でなくなることは、
巡り巡って「不幸せ」になることだと考えます。
他者に「親切」でなくなったとき、私達は何を「心」の支えに生きていけばよいのか?
他者からの「親切」の循環が薄れ、
「お金」や「地位」や「名誉」や「食べ物」のような
「欲望」や「モノ」を「心」の支えとするとき、
人は他者から奪わければならなくなります。
そうすると余計、「与える」循環から遠くなってしまうのではないでしょうか。
 
先日からご紹介している書籍「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰サンクチュアリ出版)」に、
こんな吉田松陰の言葉があります。

また会いたくなる人
毎日、少しずつ「いいこと」を積み重ねていると、
本人も知らないうちに、身のこなし方が洗練されていき、
顔とか背中から存在感があふれてくるものです。
どれだけ外見に気をつけたところで、
この魅力に及ぶものではありません。
 
また以前のブログでも紹介しましたが、アインシュタイン
「人の価値とはその人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」
という言葉は、私の大好きな言葉の一つです。
 
更には、あいだみつをさんの言葉「うばい合えば足らぬ 分け合えばあまる」。
ダライ・ラマさんの言葉「何かを与えれば、代わりに得るものがある──幸せだ」。
 
このように、多くの「人生」の達人達が「与える」ことの価値を提唱しています。
これだけ多くの人達が言及しているのならば、
おそらくきっと「幸せ」の先に「与える」があると見て間違いないでしょう。
 
まずは、そこに気づけるかどうか。
「幸せ」への道は、案外ふと気づく身近にあるのかもしれません。