魔法の言葉「一生懸命生きる」

私は、精神的に辛い時に、「一生懸命生きよう」と心の中で唱えます。
時には、口に出したりもします。
 
私がこの言葉を唱える時は、
仕事が貯まっていて途方に暮れている時、
それから他者からネガティブに見られているなと感じた時などです。
 
仕事が貯まってしまった時には、
「この仕事が間に合わなかったらお客様からどう思われるだろう?」という深刻な危惧が
「心」の底で渦巻き、「心」がつぶれそうになります。
その非常に強いいたたまれない気持ちの中で、
私は、何かにすがりつくように「一生懸命生きよう」と「心」で唱え続けるのです。
 
私は、「生命」とは「一生懸命」生きていれば、それだけで「美しい」と考えています。
「生命」の「本質」は、「一生懸命生きる」ことです。
それ以外の、「才能」や「容姿」や「生まれた時の環境」や「幸運」や「良縁」「悪縁」。
これらは、与えられた「外部環境」に過ぎない。
 
だから「不遇」の中にあっても、「苦しみ」の中で「一生懸命」に生きている人を、
私は「美しい」と感じます。
逆に、「才能」に恵まれ、努力をして、立派な人生を生きている方々であっても、
「他者」の「一生懸命」を軽視する人々を、私は好きになれない。
 
かつてホリエモンは、サラリーマンを現代の奴隷だと表現しました。
経営者が、従業員の「心」まで買ったつもりでいるのなら、
その表現も間違っていないでしょう。
実際に従業員側の人々の中にも、「心」も売ることを当然のことだと考えている人もいます。
 
しかし「奴隷」とは、「生命」の真逆の存在の「モノ」のことです。
「生命」は、「モノ」に近づけば近づくほど「不幸」になる。
 
「モノ」になった「奴隷」は、「一生懸命」生きることを放棄していくのです。
そして、「モノ」側の「遺伝子」がもたらす「欲望」に依存し溺れていきます。
キリスト教の「7つの大罪」のうち「嫉妬」「怠惰」「暴食」「色欲」。
 
また同時に、他者を「モノ」として扱う経営者自身も、
「欲望」に支配され、「生命」から「モノ」に変化していきます。
キリスト教の「7つの大罪」のうち「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「強欲」。
そういう経営者は、恵まれた環境であるにも関わらず、
常に「不満」や「不安」を持ち、得てして「不幸」です。
 
あくまで、給料とは、その人の「労働力」を買う契約なのに、
いつのまにか「心」まで売買されている。
「お金」という「モノ」では、「心」は買えません。
「心」は、「承認」や「感謝」という「心」の通貨でしか買えないのです。
 
ちゃんと「承認」や「感謝」という通貨を払える人は、
足るを知って「満足」し、皆の「心」とつながって「安心」します。
 
かつて日本にも「奴隷制度」は存在しましたが、
一方で日本は「武士道」という「生き方」を生み出しました。
「奴隷」と「侍」では、支配階級への仕え方も全く異なります。
「侍」は、「武士道」という己の誇りある「価値観」を基に、主君に仕えるのです。
この点において「侍」は、
「奴隷」のような「価値観」も「心」も何もかも主人に奪われている存在とは異なります。
「欲」を絶ち「一生懸命」武士道に励む「侍」は、まさに美しい一つの「生命」です。
一方で、「モノ」になった「奴隷」は「一生懸命」生きることができません。
だから、同じ「支配階級」を持つ身であっても、
「生命」として生きる「侍」は「幸せ」になることができ、
「モノ」である「奴隷」は「幸せ」になることができない訳です。
 
このように伝統的に「一生懸命」生きることを「よし」とされてきたので、
かつての日本人は「戦争」でも強かったのだと私は思います。
一方で、国民を「モノ」として扱っている中国共産党の軍の強さはいかほどのものなのか?
一党独裁中国共産党の圧政で「モノ」に近づいてしまった国民は、
「一生懸命」戦うことよりも、
「お金」や「欲」を優先しがちになるのかもしれないなと思ったりします。
  
もちろん「戦争」自体が、
「人」を「兵」という「モノ」に変えてしまう最も「不幸」な行為です。
ですから、私は「戦争」を肯定している訳では全くありません。
 
さて、話を元に戻しますが、
はたして現代の日本のサラリーマンは「幸せ」なのでしょうか?
ホリエモンの言うように「奴隷」になっちゃったら、「幸せ」ではないと思います。
「一生懸命」生きることを諦め、「欲望」に依存する「あり方」では、
「幸せ」を感じることはできないでしょう。
しかし、かつての「侍」のように、
誰かに仕えながらも「一生懸命」生きることができれば、
「幸せ」を感じる「生き方」ができると思います。
この「一生懸命」が「幸せ」をもたらすという考え方は、
ヴィクトール・フランクル博士の「態度価値」にも通じるものです。
ヴィクトール・フランクル博士によれば、
「態度価値」を持っていれば、
ホロコーストのような地獄の環境にあっても「幸せ」を感じることができると言います。
ヴィクトール・フランクル博士のフランクル心理学については、過去ブログをどうぞ)
 
それから逆に、「経営者」になって人を使う立場になったからって、
自分自身が「モノ」になってしまったら、
結局「幸せ」は手に入らないと、私は断言します。
他者の「一生懸命」を感じ取れないのは、
自分自身が「一生懸命」生きていないからなのです。
 
「生命」の「幸せ」は、「一生懸命」に宿ります。
だから私は唱えるのです。
 
 魔法の言葉「一生懸命生きる」