「承認」のおさらい

私は「幸せとは何か?」という「謎」を日々「考察」し、ブログにその軌跡を描いています。
 
「幸せとは何か?」
これは、「人生」最大の「謎」であり、
この「謎」を解くことこそがこの「世界」に生まれた「意味」なのだと考える次第です。
ですから、ブッダ老子荘子といった過去の偉大な「哲学者」達も、
それぞれその「謎」への答えを見出しています。
 
しかしブッダが考え出したせっかくの「真」なる「答え」も、
後続の人達によって仏教という宗教となり、
念仏を唱えれば死後「幸せ」になれるというような、
形式的な儀礼的な「実」のない「殻」だけに変貌するのです。
 
やはり、先人達の「知恵」を借りながらも、
この「謎」は自分自身で解かねばならない。
そうしようとしなければ、
「謎かけ」に答えられなくてスフィンクスに食べられてしまった哀れな旅人のように、
「人生」を旅する我々も「?」に食べられてしまいますよ。
 
さて私の考える「幸せ」の重大要素の一つが「承認」です。
ちょっと今日は思うところがあり、「承認」についておさらいをしたいと思いました。
 
「承認」について記載した代表的な過去ブログは、以下の二つです。
(1)はじめに「承認」ありき
(2)「承認」の「本質」
 
手前味噌過ぎて恐縮なのですが、上記の2つのブログを読み返した時、
「なんてすごい文章なんだ!」と自分で描いた文章に感動しました。
私のブログが好きな人にはオススメです。
よかったら、お暇な時に目を通してみて下さいね。
きっと気づきがあると思う次第です。
 
それでは、上記の過去ブログと大いにかぶるところもありますが、
「承認」について今現在私が「考察」することを描きます。
 
まず、「承認」の目的物。
「承認」という言葉自体は、世の中に多く出回っていますが、
何を「承認」するのか?ということについては、
言及されることも少なく決まった定義もないようです。
 
しかし、「承認」するという動詞に、目的物がついていなければ、
結局何をしたらいいのかわからないと思います。
例えば「行け」という指示だけでは、人は動けない。
「あっちに行け」なのか、「大阪に行け」なのか。
 
ですから、何を「承認」するのかまでセットでわかっていなければ、
「承認」という行為ができているとは言えないのです。
 
私はこの目的物を、生命の「一生懸命」と捉えています。
「一生懸命」を「承認」するのです。
 
例えば、道ばたに転がっている「石」を「承認」しろと言われても、
それは不可能だということがわかりますか?
逆に、飼い主が投げたフリスビーを、
「一生懸命」走って持って帰ってきた犬の頭をなでてあげる時、
犬は「承認」されていると感じているはずです。
そういう時、犬は嬉しそうな顔をしていますね。
 
そう。相手が「モノ」でなく「生命」だからこそ、「承認」ができるのです。
 
そして、「生命」の「本質」は「一生懸命」であると私は考えます。
「モノ」である遺伝子の産物である「容姿」「才能」「富」「ステータス」を褒められても、
それを100%手放しで喜べる人っていないのではないでしょうか?
「心」の底では、「まあ、おべっかだろ」とか、
「いやいやそんなことはありません」と恐縮するか。
なぜなら、「容姿」「才能」「富」「ステータス」は、「生命」と一体のものではないから。
 
本当に「承認」されて100%嬉しいのは「一生懸命」だと思います。
「一生懸命」を「承認」されて初めて、
自分自身である「生命」が受け入れられたと感じるのです。
 
さて、「幸せ」に最も影響を与える要素として、「心のつながり」があります。
実は、この「心のつながり」。
「愛」だけでは、築くことができません。
「心のつながり」には、2つの鍵が必要です。
「愛」と陰陽の関係にある「信」が必要となります。
 
「愛」は「与え」、「信」は「受け入れ」です。
「愛」を「与え」ようとしても、その「愛」を受け入れる準備ができない人は大勢います。
なぜなら、相手は自分を「信」じていないから。
はたまた、相手の現在の価値観と自身の現在の価値観が異なるから。
 
そうした時には、相手を「信」じて「承認」することが必要となります。
相手の「弱さ」や「痛み」を、相手の申告する額面通りの大きさだと「信」じて、
その時には地獄のような「苦しみ」の中を生き抜いた「一生懸命」を「承認」する。
そうして、自分自身の「痛み」や「一生懸命」に賛同してくれた人からの「愛」に対し、
それを拒む人はいないと私は考えるのです。
 
「愛」を「与え」られる人は、
様々なものを乗り越えてきた「強い」人である可能性が高いと思います。
「強い」人であるからこそ、
「弱い」人の立場の「一生懸命」に無頓着になってしまうことが多々あるのではないでしょうか。
 
「心」を「つなぐ」という行為は、「心」の流れが「直流」では不具合が発生します。
相手から自分に流れてくる「心」をしっかりと「承認」して、
そして自分から相手に「愛」を示すような「交流」の流れが必要なのです。
 
私はこの「承認」を使って、人生の「幸せ」を調達しています。
 
以下の写真は、現在私がスマホの待ち受け画面にしている写真です。
キリンの親の「愛」と、子の「信」を、感じ取れますか?