「フランクル心理学」の「創造価値」について

今日も前回に引き続き、「フランクル心理学」のお話をしたいと思います。
今回は、「フランクル心理学」で提唱する3つの「幸せ」の源泉である
「体験価値」「創造価値」「態度価値」のうち、
「創造価値」についての「考察」です。
 
ヴィクトール・E・フランクル博士の「フランクル心理学」について詳しくは、
過去ブログをどうぞ。
 
この心理学に基づく心理療法を「ロゴセラピー」と言い、
フランクル心理学」は「ロゴ(意味)」を最重視した理論体系となっています。
自分の「人生」に「意味」があると「信」じれば、人は救われるし輝くのです。
 
さて、今回は「創造価値」。
人は「創造」することで、「幸せ」を実感できる。
 
「創造」することも、「体験」することも、「生命」の特権です。
「生命」が「モノ」のような「存在」に墜ちていくと、
「体験」することも「創造」することもできなくなります。
 
では、「創造」するとはどんなことでしょうか?
 
「意味」の「表出」と、私は捉えます。
私という「生命」から「意味」を「表出」したものが、このブログです。
また、石膏という「モノ」に「意味」を「表出」したものが、彫刻となります。
映画や小説や漫画だって、創り手という「生命」から「意味」を「表出」したものです。
 
「創造」が「意味」の発信であることに対して、「体験」は「意味」の受信となります。
他の「生命」が「創造」した「意味」を「体験」する。
あるいは、他の「生命」そのものの「意味」を「体験」する。
 
「意味」は「生命」の別名です。
決して、「モノ」に「意味」は帰属しない。
道ばたに転がっている石には「意味」は内包され得ないのです。
 
「生命」は「モノ」に墜ちることなく、
「生命」本来の「命」の使い方をしていけば、「幸せ」になれます。
3つの価値の最後の「態度価値」とは、
「生命」自身に「意味」を見出すことで「モノ墜ち」の状態から脱出し、
「生命」としての本来の生き方に回帰することなのです。
 
さて、「創造価値」に話を戻します。
上記で言及したように、「創造」とは自身から「意味」を表出する行為なのですね。
「意味」を表出する行為が「創造」であるならば、
別に「芸術作品」や「文芸作品」だけが「創造」ではありません。
私達「人」や「生命」が営む行為全てに
「創造」という「価値」を付加することができるのです。
 
私は、ビーバーが「一生懸命」川に創ったダムも「創造」だと考えます。

 
そして私達人間の「一生懸命」やった行為も、「創造」に含まれる。
例えば、惰性でも強制でもなく、
自分という「存在(命)」のために「一生懸命」仕事をした行為は「創造」です。
あなたが工場勤務だとして「一生懸命」ネジ止めしたそのネジ止め部分は、
既に「創造」物なのです。
「一生懸命」仕事をするということは、自分の持てる何かを付加することになります。
「一生懸命」仕事すれば、
必ず自分だけの独自の工夫やコツやこだわりが、仕事に付加される訳です。
 
そういう「生き方」が、「モノ」からはほど遠い「幸せ」な「生き方」に繋がります。
 
この私のブログは、
「モノ」の観点から見たら、
何の「お金」も生まない非生産的な行為です。
しかし「生命」の観点から見れば、一転して典型的な「創造」であることがわかります。
日々仕事の合間を縫って大切な「時間(命)」を費やしてまで、
「一生懸命」に「意味」を「表出」することは、
非常に純度の高い「創造」行為なのです。
 
どうでしょうか?
目の前の仕事や作業も、
「私」が生まれたからこのように素敵に達成されていくのだと感じながら生きていますか?
 
あなたが生まれてくれて、ありがとう。
日々のあなたの「一生懸命」のお陰で、「世界」は素敵に「創造」されていきます。