「フランクル心理学」の「態度価値」について

さて3日連続の「フランクル心理学」「考察」も、、最後のコマとなりました。
今日の「考察」は、「幸せ」の源泉となる3要素のうち「態度価値」です。
この「態度価値」は、
フランクル心理学」で最重視している「意味」と、密接な関係にあります。
 
少しおさらいをすると、
「幸せ」の3要素とは「体験価値」「創造価値」「態度価値」のことです。
「夜と霧」の著者であるヴィクトール・E・フランクル博士は、
この3要素が「幸せ」をもたらす源泉であると提唱しています。
また、「フランクル心理学」に基づく心理療法を「ロゴセラピー」と言いますが、
この理論では、「ロゴ」すなわち「意味」という概念を最重視しているのです。
 
そしてここでは、私の持っている「世界観」をこの理論にプラスしています。
私の「世界観」とは、以下のようなものです。
(1)「生命」と「モノ」は次元の異なる対立した存在である。
  「生命」は、遺伝子という「モノ」に囚われている。
(2)我々人間や生き物の本質は、「モノ」ではなく「生命」である。
  また「生命」の本質は、「一生懸命」である。
  「生命」にあって「モノ」にないものとして、「意味」や「目的」がある。
(3)物質や「お金」、私達の物理的な体や遺伝子と遺伝子がもたらす欲望は、「モノ」である。
  「生命」は物質としては認識できない、物質的でない何かである。
(4)「生命」は液体のようなイメージである。
  「水」や「雨」をイメージしてもらうとわかりやすい。
  まず、「雨」として降った「生命」は、遺伝子によって地上に作られた「器」に貯まる。
  「死」とは、この「器」が壊れることである。
  「器」が壊れると、「生命」の水は川となって流れ、やがて「海」に合流する。
  この「海」では、「海」の「水」のように「生命」は全て一つとなっている。
  やがて、この「海」から蒸発した「水(生命)」は、「雲」となり再び「雨」となる。
  「生命」は、このような循環を経ることで何かしらの「価値」?「意味」?を帯びていく。
  ・・・上記の「世界観」から、全ての「生命」は本来一体であるため、
     自身だけでなく他の「生命」の「幸せ」に寄与することに、
     「生命」は深い「喜び」を感じる。
     しかし利己的な「遺伝子」が自身の増殖のために提供する「欲望」に、
     「生命」は常に邪魔をされている。
  ・・・「生命」もしくは「自我意識」が液体のようなイメージを持っていることは、
     手術によって右脳と左脳を分離されてしまった人が、
     右脳と左脳で別々の行動動機を持つという実例で説明できると思います。
     詳しくは過去ブログ「「意識」を2で割ると? 「意識」を2で掛けると?」を
     ご覧下さい。
 
話が長くなりました。
では、最後の「幸せ」の要素「態度価値」について、私の解釈を交えて説明します。
この「態度価値」こそが、「生命」の「幸せ」を護る最後の砦なのです。
ヴィクトール・E・フランクル博士が収容されたホロコーストのような
地獄のような環境では、「体験価値」や「創造価値」を持つことが許されない。
そういった環境下において、なお保持することができる「価値」が「態度価値」なのです。
そういう意味では、
「態度価値」を会得することが、「幸せ」な「人生」を送る大きな鍵となります。
 
「態度価値」とは、自身の「人生」に「意味」があると感じる「態度」です。
現実がもたらす「運命」はなかなか厳しいものですが、
その「運命」をどう自ら引き受けるのか?
自身の「人生」に「意味」などないと感じる人々にとって、
過酷な「運命」は「悪魔」のような存在。
「悪魔」に従うしかない最悪の「人生」。
一方、「運命」に「意味」を見出す人々にとって、
過酷な「運命」も自らの「人生」を紡ぐ極上の「材料」にすぎない。
全ては、あなたが主人公である「人生」を紡ぐために存在する・・・
 
結局、「無意味」「無目的」は「モノ」を表わす概念であり、
「生命」が「モノ墜ち」している状態が「不幸」なのですから、
そこに「意味」や「目的」を取り戻すことで、「幸せ」への回帰が可能な訳です。
 
しかしながら、現在の社会は私達「人」にとって「モノ墜ち」しやすい環境にあります。
資本主義における個々人の競争の推奨、偏差値や年収等による個々人の価値の数量化。
様々な社会の仕組みが、
個人を自身の「人生」の「主人公」の座から引きずり落とそうとするのです。
 
他からどう見られようと、どう扱われようと、
あなたの「価値」は減ずるものではありません。
「モノ」側のもたらす「欲望」等に耳を貸さずに、
「生命」の「本質」に沿って「一生懸命」生きていけば、
あなたの「人生」という「小説」は、涙が出るほどの「感動作」に仕上がるのです。