「貪」と「蜘蛛の糸」
そもそもの仏教の始まりは、「人生」や「幸せ」の哲学でした。
ブッダは、なぜ「世界」が「苦しみ」に満ちているのか考えました。
そして、ロジカルに「苦しみ」の「事象」を
「四苦八苦」という8つのフレームワークに分解して、思考を進めたのです。
また、「苦」の根源は「煩悩」であるとし、
「煩悩」の発生源を「三毒」という3つの原因に分解しました。
光の三原色のように、これら「三毒」は様々な割合で組み合わさり、
108個の「煩悩」を生み出すのです。
「三毒」とは、「貪(とん)」「瞋(しん)」「癡(ち)」。
それぞれ、以下のような「意味」になります。
※「三毒」のウィキペディアはこちら。
(1)「貪(とん)」満足を知らないこと。
※キリスト教の7つの大罪では「強欲」
(2)「瞋(しん)」自分勝手な怒り。
※キリスト教の7つの大罪では「憤怒」「傲慢」
(3)「癡(ち)」真理に対する無知の心。
※キリスト教では「真理」は聖書であり、それ以外の「真理」を探求することは許されない。
私には、それぞれ納得感があります。
自身の内観は難しいものですが、
ある程度生きた人ならば、これらの「毒」に苦しんでいる他者を見た経験があるはずです。
さて、今日は「貪」の話。
コンサルタントの仕事をしていると、
「努力」と「幸せ」は直結しないなと感じることがしばしばあります。
特にワンマン経営の会社に多いのですが、「努力」をして社長になられた方々でも、
この「三毒」から逃れられずに、苦しんでいる人は多いです。
また、社長という立場であるため、
この社長自身の「三毒」がもたらす「苦しみ」は従業員にも及びます。
もちろん、そういう社長は一部です。
努力して一代で社長になられ、
社員の「幸せ」を第一に考えている尊敬させられる社長もたくさんいらっしゃいます。
ただ思うのは、一般の人よりは、
社長と呼ばれる人達の方がこの「三毒」が強い傾向にあるようです。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出して下さい。
現世という地獄から這い上がろうとして、必死にのぼった「蜘蛛の糸」。
必死に努力してのぼった距離が長ければ長いほど、
自分の「蜘蛛の糸」が切れることを恐れます。
「こんなに努力してのぼってきたのに、
なんで下のあいつら(従業員等)に邪魔されなければいけないんだ!」
(私の「蜘蛛の糸」考察ブログはこちら。オススメです。)
結局、こういう社長は「一生懸命」生きていない。
「一生懸命」生きるのが嫌だから、
努力して「金」や「権力」という「モノ」で自分の「心」を守ろうとするのです。
本当の「一生懸命」は、自分の「心」や「弱さ」と向き合い、
他の「生命」と「心」の送受信をしっかりとおこなって生きることだと思います。
あなたは、托鉢のお坊さんに何かを提供したことはありますか?
募金ではないので「渡した」お金やモノに何か「意味」があるのでなく、
「手離す」ことに「意味」があるのです。
「金」や「モノ」が自身から離れることの恐怖に縛られている人は、
托鉢のお坊さんに「金」を渡して、
「貪」を手放す修行をしてみてはいかがでしょうか?
自身の「幸せ」のために。
「蜘蛛の糸」のカンダタも、「貪」を手放してさえいれば、
周りの風景が「地獄」から「極楽」に。
下をのぼってくる「亡者」達も、共に生きる美しい「生命」に見えてくることでしょう。
ご覧なさい。
今まで「亡者」と思ってきた人々は、美しく温かい笑顔で微笑んでますよ。
「蜘蛛の糸」を必死にのぼってきた会社の社長さん!
従業員は、自分の「蜘蛛の糸」をのぼってくる「亡者」に見えますか?
それとも、同じ美しい「命」を持つ素敵な「仲間」に見えますか?
それによって、あなたの会社が「地獄」か「極楽」か決まるのです。