「欲」ではなく、「心」を満たすために生きたい(「瞋」)

前回から、ブッダの説いた「三毒」についてお話をしています。
三毒」とは108個の「煩悩」を生み出す基となる三原色のことです。
三つの毒とは・・・
(1)「貪(とん)」満足を知らないこと。
(2)「瞋(しん)」自分勝手な怒り。
(3)「癡(ち)」真理に対する無知の心。
・・・という内訳となっています。
 
今日は、「瞋」のお話。
 
上記にある通り、「瞋」とは自分勝手な怒りのことです。
キリスト教の7つの大罪で考えると、「傲慢」「憤怒」が該当すると思います。
 
「感情」を感じる力の薄い私は、「憤怒」の欲は少ないと思っています。
基本的に「笑顔」が得意です。
 
私と同じように「笑顔」が得意な人は多くいると思いますが、
そういった人達が
「感情」を豊かに感じて普通に「感情」を表に出す人々から言われて傷つく言葉があります。
それは、「今は笑顔だけど、腹に怒りを貯めていてキレたらすごいんだろう?」って内容です。
誰もが、自身と同じように「感情」を感じているとは限らない。
ですから、「怒り」を外に出さない=「怒り」を内に貯めている、のではないのです。
私からすれば、「感情」をストレートに相手にぶつける方がどうかしてると思ってしまいます。
 
じゃあ、私は完全に「怒り」を感じる人間ではないかと言うと、そんなことはありません。
私は、かつてなったことがあります。「怒り」の「鬼」に。
 
それは、私が最初に入った会社でのこと。
「人」としてもまだまだ未熟だった私は、会社の先輩からのイジメにあい、
ノイローゼになるほどの「怒り」の「鬼」になりました。
結局、そのイジメが原因で会社を辞めた次第です。
私の「人生」は第三者の「悪意」によって、変更を余儀なくされました。
(今となっては、その「運命」も今の私に必要なものだと思っています)
 
そのノイローゼの当時、
相手を殺すことまでは考えませんでしたが、相手を殺す妄想はよくしていたし、
自殺して相手に思い知らせてやろうとは、よく考えたものです。
とにかく、寝ても覚めても四六時中、そのイジメの中心の先輩の顔が頭に浮かんでいました。
その度に、「怒り」の地獄の「炎」が私を苦しめるのです。
会社を辞めても、半年はその状況が続きました。
 
辞めた当時、妹はその相手を訴えることはできないの?と、共に怒ってくれました。
訴えることは考えていなかったし、しませんでしたが、
私のことを心配してくれる家族のためにも立派に生きていかないといけないと想い、
今の私があるのです。
私は、苦しんでいる誰かを助けられるような立派な人間になりたい。
 
という訳で私は、「憤怒」の「毒」をよく知っています。
私自身の経験から言えることは以下の2つです。
(1)「憤怒」は、周りの人達をものすごく傷つけます。
(2)そして「憤怒」の炎は、自分をズタボロに焼き尽くします。
 
だから、私は「怒り」をうまくコントロールしたいと思っています。
「怒り」に操られる悲惨さを知っているから。
 
しかし最近、私は「怒り」に操られている自分に気づきました。
「怒り」を外に出す「憤怒」には手を出していませんが、
キリスト教の7つの大罪で最も罪が大きいとされる「傲慢」であったのです。
 
「傲慢」は、ブログの中の文章に現れていました。
ブログの中で、私がよく非難している対象には、一つの雛形があったのです。
それは、かつての上司。
その上司の理不尽と感じた部分に「怒り」を感じた私は、表に出すことはしないまでも、
気づいたらブログの中で、その相手を叩いていました。
 
そういった趣味の悪い私の記事に対し、それは卑怯な考え方だとコメントを頂き、
「傲慢」に操られている自分に気づくことができたのです。
コメントを頂いた方には、本当に「心」から感謝をいたします。
 
改めて、全ての「人」のために「ブログ」を描くと、「心」に決めた次第です。
 
「欲」ではなく、「心」を満たすために、私は生きたい。
「欲」にほいほいとついていったら、きっと後悔します。
「憤怒」という「欲」にほいほいついていって、
地獄の3年間を過ごした私が言うのだから間違いありません。
イジメにあった当時、「私」を苦しめていたのは、
イジメをしていた先輩ではなく、「私」自身の「心」のあり方だったのです。
 
「心」は、本当は何を望んでいるのか?
その「心」の声が、「幸せ」の答えなのです。
私は、引き続きこのブログで、「心」の声に耳を澄まし続けます。