「ゼロ」であり「無限」であるという感覚

前回の記事では多くの閲覧やコメントを頂き、ありがとうございます。
頂いたコメントを受けて私が頂いた気づきの記事も、
今後たくさん描いていきたいと思っている次第です。
 
コメントに返事をしている際に、
全体として想起・連想されたことがありましたので、
本日は、これを記事にしたいと思います。
 
私の好奇心の中心は、
「自分」とは何か?ということと、「世界」とは何か?ということ、です。
そういった疑問について、(もちろん実際の科学者のレベルまで詳しくはありませんが)
科学雑誌ニュートン」やそれに準じた最先端科学を紹介する一般書籍は読んでいます。
例えば「世界」という分野で言えば、
ブラックホールとかヒッグス粒子とか超ひも理論とか、
そこら辺のワードには強く反応する訳です。
 
さて、宇宙に関する情報に触れていると、
想像もつかないような宇宙の巨大さにクラクラとしてきます。
まさに、私達の生活尺度からしたら「無限」と言ってもよいスケールではないでしょうか?
 
そう考えますと、ちっぽけな地球に住む私達の存在自体は、
宇宙的視野から見ると(「1」/「無限」)になり、
私達の存在とは「ゼロ」であると言っても差し支えないと思います。
その意味では、オバマ大統領も私も、同じく「ゼロ」となる訳です。
 
科学が普及して、私達の価値観を大きく揺り動かしたのは、実にこの点だと考えます。
すなわち、私達一人ひとりは「無力」「無意味」であると痛感させられたのです。
本当は「地動説」よりも「天動説」の方が、よっぽど「人間」の「価値」を守る考え方だし、
「地球」が無限の「宇宙」のはずれにある小さな小さな存在であると知った時、
例えばアイヌの信仰のように、「自然」を「神」とする考え方を継続することは難しい。
 
「無限」の「宇宙」があると知った時、
私達は自分が「神」に護られた特別な存在だという概念を捨てることを迫られる訳です。
そうして、ゼロ「価値」の私達は、
「モノ」のように外部から数字で自身の「価値」を決められることを
受け入れるようになります。
「偏差値」「年収」「順位」。
 
しかし、私達は「モノ」ではなく「生命」です。
「生命」には、別軸があります。
それは、道端の石には存在しない「心」や「主観」です。
 
この、私達の誰もが自分達の本体として感じている「心」や「主観」は、
決して現時点の「科学」の方向性では解決できないと私は感じています。
唯一この領域に手が掛かっているのは、
ベンローズ博士の「量子脳理論」くらいでしょうか。
 
この「私」という「主観」は、
現時点の科学で解決しようとしている問題とは別次元であるという感覚。
この感覚は、私の中には絶対的にある感覚なのですが、
これを他者に説明してもピンと来ないことが多いです。
 
なぜ伝わらないのだろう?
 
この、「私」という「主観」が「体験」をするという現象。
量子力学で言うところの「観測」を行うことができる存在の源泉。
こういった「主観」の現象は、
現時点の科学とは別次元の現象だよねっていう「直感」を、
私は、当然のように持っているのですが、
誰か同意してくれる人はいないでしょうか?
 
さて科学的見地では、私達は単なるタンパク質の集まった存在であり、
無限の宇宙のスケールから自らの存在を考えると、
自らは(「1」/「無限」)で「ゼロ」になると、先程述べました。
 
しかし、科学の描く「世界」とは全くの別軸として、
私達が「体験」する「主観」の「世界」があると私は考えているのです。
138億年前に誕生した「宇宙」。
一方、私達の「体験」する「世界」はわずか数十年前に生まれ、
長くてもあと100年の内に消え去ります。
宇宙から見たら、単なる泡のように瞬時に「消滅」してしまう私達ですが、
逆に体験(観測)する私達の側から見れば、
自身が死んだら「世界」も「消滅」してしまうとも言えます。
このことが「主観」的に正しいことを、おわかり頂けますでしょうか?
 
であるならば、「私」が存在しなければ終わるこの「主観」の「世界」においては、
各「私」は「神」のように「無限」の存在であると捉えることもできます。
ものすごい「不遜」なことを言っているようにも見えますが、
しかし私は、この自身の「価値」が「無限」であるという感覚も
常に持ち続ける必要があると考えているのです。
現在の「科学」の著しい発展による
自身の価値が「ゼロ」であるという「客観的価値観」とバランスをとるためには、
自身の価値が「無限」であるという「主観的価値観」を強く持つ必要があります。
 
客観的に見れば「地動説」は正しいが、
主観的には「天動説」も正しいと言える「心」の強さ。
 
「モノ」的観点と「生命」的観点は別次元の現象であり、
決して同じ「軸」で交わるものではありません。
 
両方必要なのです!
「ゼロ」の価値観も、「無限」の価値観も。
そして「無限」の価値観は、
私達の生きる「人生」に、優しい「意味」をつけてくれるのです。