映画「パッション」

たまたま昨日読んだ本に、映画「パッション」のことが記述されており、
ちょっと私も「パッション」について描こうかなと思いました。
 
映画「パッション」のウィキペディアは、こちら
 
ブログを描いていて役得なのは、
描こうとしている情報をウィキペディア等で調べた時に、
その情報について新たな発見があることです。
そうすると、私の知識はより深く根付き、より私のものになっていきます。
今回の新たな発見は、
この映画の「キリスト」「ユダヤ」「イスラム」への社会的意義や反響について。
 
そういった興味深い情報も含めて、
以下に、映画「パッション」の情報をウィキペディアから転記します。

メル・ギブソン監督

キリスト教新約聖書で知られる、イエス・キリストが処刑されるまでの12時間を描く

・出演者全員のセリフは、全編アラム語ラテン語となっている

ヨハネ・パウロ2世も試写を視聴し、

 周囲から「It is as it was(全て真実)」とコメントがあったと発表されたが

 直ちに打ち消された。

 教皇の秘書は後日、

 「確かに教皇はそう言われたが、

  単なる個人的な感想をメディアがおおげさに取り上げ、

  その結果映画の宣伝に誇大に使われるような恐れがあっては困るので否定した」

 と明らかにした。

・イエスへの拷問場面は凄惨であり、観覧していた女性が心臓発作を起こして死亡した。

・「ユダヤ人が悪魔に挑発されてイエスの処刑を求めた」シーンがあり、
 メル・ギブソン監督は「反ユダヤ主義」と批判されている

ユダヤ人を悪く描いていると欧米のメディアから叩かれた為か、

 イエス預言者としては認めるが神としては認めないイスラム諸国で上映され、

 好意的に取り上げられた。
 
どうですか?
なかなか興味深いでしょう?
この映画の上映を通じて、
日本人にはなじみのない、
旧約聖書唯一神ヤハウェを巡る深い信仰や根深い対立を垣間見ることができます。
 
さて私は、この「パッション」を当時映画館で観ました。
私は特にキリスト教を信仰している訳ではありませんが、
当時の世界的な複雑な反響を知っていましたので、
それほど人々の「心」を動かす映画とはどんなものか観てみたかったのです。
 
私の3つ左隣りの席には、シスターの女性がいました。
映画館の雰囲気は、一般の娯楽映画の客層とは違うものでした。
 
上映が始まり、私はある場面で涙を流しました。
実は、私が映画館に行って唯一泣いた映画が、この「パッション」です。
その泣いた場面は、今でも私の記憶に焼き付いています。
 
どんな場面かと言うと、
キリストが処刑される前夜、
弟子のペテロがキリストの仲間かと訪ねられ、「知らない」と3回嘘をついた場面。
そして、後でそのことを恥じ入り、
うち砕かれて泣いているペテロを見て、私も泣きました。
 
本来、一番弟子に裏切られたキリストの心境を想い、泣くところなのかもしれませんが、
私は、裏切ってしまったことを悔やみ打ち砕かれたペテロの心境に共感し共鳴し、
涙を流したのです。
私は、目の前の映像のペテロの不完全さと一生懸命さを愛しました。
 
完全な存在である「神の子」イエスに対し、我々人間は不完全です。
だから己の信念を裏切ることもあるし、裏切ったことを悔やんで泣きもします。
神の視点の存在から見たら、そんな各人の「心」の動きなど些細なことでしょう。
そういった「完璧」な視点を持つ人は世の中に結構いますが、
私はそういった考えは好みません。
当の本人からしたら、
その結果がどんなに間違っていようと、どんなに不完全であろうと、
一瞬一瞬が、「一生懸命」に生きた結果であり、証なのです。
そのことに「真」の私達の実在があります。
 
「不完全」こそが、私やあなたの正体であり、
「不完全」を「愛」することができなければ、
自分からも世界からも「愛」されずに生きることになると、私は考えます。
 
「親の言うことを聴くよい子」だから愛するという「限定条件付の愛」から、
「あなたはあなたとして一生懸命生きているから愛おしい」という「無条件の愛」へ。
 
罰せられていい存在の「生命」など一つとしてない。
私は、そう考えるのです。