「オープンソース型宗教」は「応用哲学」で

先日、「リナックス型宗教を流布したい」というブログを描いたところ、
様々なご意見を頂戴し、とても勉強になりました。
多かった指摘の一つは、「Linux」はその出自からして、
今回の例えには当てはまらないというものでした。
 
ですので、今後は「リナックス型宗教」改め「オープンソース型宗教」と呼びます。
 
当初「リナックス型宗教」と言う形で表現したかったことは、
宗教の「真理(世界とは?自分とは?幸せになるには?)」をネット上にテキストで構築し、
誰もがその「真理」を改変することができるという仕組です。
 
これを提唱した背景として、
「世界とは?」「自分とは?」「幸せとは?」という根源的な問いに
まだ答えを出せていない「科学」では、
まだ個々人を「幸せ」にする力がないことを挙げました。
また、「科学」によって、
「世界とは?」「自分とは?」という問いがわかったつもりになっている状態を、
「科学万能教」信者と表現した次第です。
例えば、宇宙には絶対的な座標軸がある訳でもないため、
「天動説」も「地動説」も見る人の相対的な立場によってどちらとも正しいと言えるのに、
「科学」がそう言っているからという理由で「地動説」が正しいと信じている人々。
例えば、「死んだらどうなるか」なんて「科学」的にも答えが出ていないのに、
死んだら「無」になるということを「科学」的だと思っている人々。

ちなみに「地動説」が「科学」的に正しい理由は、
地球から見た、金星や火星等の惑星の動きを計算式で表現しようとする際に、
「天動説」よりも「地動説」で表現した方が、圧倒的にシンプルだからです。
 
私は、この世界は「モノ」と「生命(心)」に二分できると思っています。
「科学」は「モノ」側を解明することは得意ですが、
一方で「科学」という方法論では「生命(心)」側を解明するのには全く向いていない。
 
ですから「科学」という視点では、「人」は「モノ」的な側面でのみ語られてしまう。
過去ブログ「ゼロであり無限であるという感覚」で描きましたが、
「人」は「モノ」的な側面で語られてしまうと、その「価値」は「ゼロ」になってしまう。
無限大の広さを持つ宇宙において、辺境の天の川銀河の、更に辺境の太陽系の中の地球。
その地球に70億人いる人間の一人が私やあなたである訳です。
その観点ではどう考えても、私やあなたの「存在価値」は、砂浜の砂一粒より小さい。
 
だから、「科学万能教」では、人は自分の「価値」を自ら見いだすことができない。
客観的な数字によって測定された場合や、他者と相対的に自身を比較した場合にのみ、
自身の「価値」を外部を通じて知る訳です。
「年収」「年齢」「偏差値」「順位」「IQ」
「権力」「名誉」「肩書き」「容姿」「ステータス」
 
そんな「価値観」の世界は、危ういと思いませんか?
だから、就職活動で失敗したくらいで、
自身の「価値」を喪失し自殺に走る若者が増えるのです。
 
このままでは、全ての人が「幸せ」になることはできない。
私はそう考え、「宗教」の必要性を感じたのです。
「宗教」は「科学」と違って、「世界とは?」「自分とは?」に答えを出せます。
そして「世界」と「自分」を決定できれば、
絶対的な自分の「価値」を見いだすことができるのです。
 
しかし、現在の「宗教」にも問題がある。
それは、「世界とは?」「自分とは?」という「真理」が「クローズド」だということ。
新興宗教の教祖のみが「真理」を知っているとか、
聖書にあることのみが「真理」であるとか。
一般信者は、「真理」を疑うことすら許されない場合が多いはずです。
 
誰もが「幸せ」になるために必要な「真理」が「クローズド」である場合、
誰もが利用しているOSの「ウィンドウズ」の「ソース」を独占している
マイクロソフト社に世界から「富」が蓄積されるように、
新興宗教の教祖にも「富」が蓄積されます。
 
また、「真理」が健全な議論の元にバージョンアップされない環境にある場合には、
「信者」の「幸せ」を最適にかなえようとする「宗教」の「本質」は形骸化し、
逆に「信者」の「幸せ」を害する場合もあるのです。
例えば、イスラム教では豚肉を食べることを禁じていますが、
これはマホメットの時代には豚には寄生虫が多かったことが理由と言われています。
この戒律は、かつては人々の「幸せ」にとっては合理的だったのです。
ですが、現在においては非合理なタブーになっています。
 
そこで、私は「真理」をITによって「オープン」にして、
皆で議論してブラッシュアップできる「宗教」を提唱した次第です。
リナックス型宗教」改め「オープンソース型宗教」。
 
しかし、前回のブログによせられたコメントには、
合議で決めると言っても、
各人が好む格言が羅列されるだけの意味のないものになるんじゃないの?
というものがありました。
 
これは、おっしゃる通りだと思います。
第二次世界大戦中の出来事について、
日本と中国や韓国の主張する事実が全く異なるように、
議論したからと言って簡単に「真理」がブラッシュアップできるものではないでしょう。
 
とすれば、誰かが提唱した「真理」を多くの人が検証し議論し、
より「確からしい」ものを選んでいくという
かなり体系的・組織的なシステムが必要となります。
 
そんなことできるのか?と考えた私の頭に思い浮かんだのが、
「哲学」こそが「真理」の正当なブラッシュアップの場であったのではないかという考えです。
 
先の「リナックス型宗教を流布したい」というブログにて頂いたコメントの中に、
構造主義」や「ポスト構造主義」の観点がないというご指摘がありました。
私はコメントを頂いた内容について書籍を読んで知識の補充をしているのですが、
上記のご指摘についても、
文藝春秋の「寝ながら学べる構造主義内田樹著)」という書籍を、
キンドル電子書籍で購入して読みました。
そうしたら、この本がとてもわかりやすく興味深い内容だったんですね。
(後日、「構造主義」については、
 この本への所感と共にブログでまとめたいと思っています)
そこで読みとったのは、「哲学」のスゴさです。
「哲学」によって提唱されてきたことは、
ここまで現実の社会に影響を与えているのかという驚き。
「世界とは?」や「自分とは?」という疑問に、
これほどの人達がその天才的な知性で答えようとしているのかと、感じ入りました。
 
であるならば、学術的に多くの人の議論や批判にさらされる「哲学」こそが、
オープンソース型宗教」の「真理」にふさわしいと思うのです。
その圧倒的な論理性・納得感。
「哲学」は難しそうだなと敬遠している人でも、
この「寝ながら学べる構造主義内田樹著)」という入門書を読んで頂けたら、
私の言ったことに共感頂けると思います。
著者の内田さんは、実例をふんだんに織り込みながら、
とてもとてもわかりやすく「構造主義」や「哲学」の本質を書いてくれています。
私はこの本を読んでいて、この人は本当に頭がいい人なんだなと感嘆しました。
 
しかし、「哲学」は純粋に「理論」であり、
実際に人の「幸せ」に役立てることを目的とはしていません。
そこで、考えたのが「応用哲学」という概念なのです。
「応用哲学」とは、何を意味するか?
 
例えば大学の理系の学科には、「物理学」と「応用物理学」という2つの学科があります。
「物理学」が純粋に理論を研究するのに対し、
「応用物理学」は、「物理」の理論を産業等の「社会」に役立てることを目的とするのです。
「物理学」という一つの学問も、その知識を実用として社会に貢献するためには、
もう一つの「器」を用意する必要があります。
 
ですから「応用哲学」の意図するところは、
「哲学」という常に検証されている「最も確からしい」「理論」を活用して、
「人」や「人類」の「幸せ」に貢献することです。
 
今の日本では、新興宗教自己啓発セミナー等、
「幸せ」になる「真理」を提供する機能が百花繚乱となっていますが、
「真理」は教祖や教団に「クローズド」にされており、
外部からの検証は受けつけないため、
議論するにも足りないような内容のものが横行しています。
そういったものにしか頼れないのが、今の日本社会なのですね。
 
だからこそ私は、「応用哲学」による「オープンソース型宗教」が、
今の日本社会や世界に必要であると提唱します。
 
「応用哲学」という言葉でネット検索をかけると、
様々な組織や書籍がひっかかりました。
同様のことを考えている人達が、既に多くいらっしゃるようです。
 
ですが、まだまだ「応用哲学」という「言葉」や「概念」は社会に認知されていません。
私は、もっともっとこの概念を普及させたいと想う次第です。
 
まずは、私自身「哲学」をもっともっと勉強して、
「応用哲学」として人々の「幸せ」に強力に貢献できるような書籍を、
キンドル電子書籍で出版したいと考えています。
値段は、ただ同然の値段で。
(できるなら無料がいいのですが、
 それだと逆に価値を感じてもらえず普及しない可能性もあるかなと考えています)
 
「世界」を「幸せ」にするために、最も効果的なピンポイントは何か?
私はインターネットの力を利用して、それを実現したいと思っています。