誰のために生きるのか?

私は、自分のために生きることができません。
私が頑張っていられる時は、
「誰かのために」という想いが「心」にある時です。
 
組織の仲間のために。
苦しんでいる○○さんのために。
大切なあの人のために。
 
私にとっては、頑張るためによい方法だったのですが、
ただ、そのやり方には限界があるようです。
 
どこかで覚める時が来る。
いつかドーピングの効果が切れる時が来る。
 
その人達に対する想いは変わらなくても、
頑張る気力が少しずつ薄くなってくるのです。
 
「自分のために生きる」という根本がないことが、原因だと考えます。
 
私の自分に対する自己評価。
これは、今までずっとマイナスです。
それは、コミュニケーション下手で、変わり者で、
「愛される」ことを今まで体験できなかったから。
 
だから、私のことを愛してくれそうな異性に出会うと、
母親を求める子どものように、
今までの大人の仮面が外れて、
相手をただただ求めるようになってしまう。
 
当然、そんなの大人の恋愛の駆け引きじゃないから、
相手にも引かれて、結局自分が愛されないことに更に傷ついてしまう。
 
「愛される」という体験は、生きる上で本当に重要だと思います。
 
この問題を解決するためにはどうしたらよいか?
それは、自分で自分を「愛する」ことなのだと思います。
自分で愛することができない人格を、一体誰が愛してくれると言うのでしょうか?
まずは、自分が自分を愛さないと。
 
じゃあ、どうしたらいいのかなと考えました。
その時に大いに役に立ったのが、
職場の仲間に借りたエーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本です。
この本を読んだ私は「ここに世界の全てが書いてある!」と感じ、とても感動しました。
「愛」の欠乏に苦しんでいる人には、是非この本を読んで欲しいと思う次第です。
必ずあなたの探していた答えがそこにあると、私は断言します。
そのくらい深くそして端的にこの世界の構造を、「愛」という軸で表現しているのです。
 
この本を読んで、私はこの重大な問題をこう解決しようと思いました。
今までずっと目をそらしていた「見たくない自分」。
これを、感じることから始めよう。
 
人を正当に評価できなかった未熟な学生時代の自分ならいざ知らず、
仲間と一緒に助け合って相談し合って仕事をする社会人になった今なら、
「自分」をきっと温かい視線で評価できる。
 
今なら、「見たくなかった自分」を受け入れられる。
 
自分を受け入れられて、そして愛せるようになったら、しめたものです。
 
自身のない卑屈な自分がいなくなり、等身大の自分を自然に表現できるようになる。
そうしたら、自分のために自然に頑張ることができるようになるし、
自分を認めた自分なら、自分の本来の魅力が自然に醸し出されるようになるはずです。
 
自分で自分を愛せるようになったら、なんだかいいことずくめな気がします。
 
自分ってどんな人間なのかな?
 
こんな言葉が私の「心」に浮かんだとき、昔私が書いた短編小説のことを思い出しました。
こんな小説です。
超短編小説:「生きる」
 
1分で読める小説なので、よかったら見てみて下さい。
 
私は、この小説の主人公のロボットのように、自分で自分を感じようと思います。
それをできなければ、私は何者でもなくなってしまう。
自分で自分を感じられない者は、誰にも本当の自分を気づいてもらえないのです。
 
「だれか気づいて!!僕はここにいるんだ!!」