「愛」の反対は「無関心」

「愛」の反対は「無関心」
マザー・テレサの有名な言葉です。
 
最近私はエーリッヒ・フロム著の「愛するということ」を読み、
「人生」や「幸せ」や「世界」を考察する上で、
「愛」は欠かせないと感じるようになりました。
 
今までは、仏教的な価値観に傾倒していたので、
「愛」を「エロス」や「エゴ」と捉え、
「慈悲」のような他者に「与える」「優しさ」の方が重要だと考えていたのですが。
 
どうやら、人は「愛」なしでは凍えてしまうような気がします。
これは私が職を変え、
多くの人々と「心」の交わりを持つようになってから、
気づいたことです。

「愛」の反対は「無関心」
私は、この言葉は本当に「真」であると感じてきました。
 
「無関心」「無理解」「無視」。
これらの態度が、多くの人々の「心」を凍えさせ傷つけているのは事実です。
「愛」の反対は、人を「人」として見ずに「モノ」のように見ることなのだと思います。
 
就職活動が、なぜ辛いのか?
それは、使えるか使えないかという観点で自分が「モノ」として見られているから。
片想いが、なぜ辛いのか?
それは、相手が自分に「無関心」だからです。
イジメの本当の恐ろしさは何か?
それは、自分が「人」として見られていないからです。
イジメる側は、相手が憎くてイジメているのではありません。
相手の「心」を見ていないから、イジメるのです。
イジメに荷担する側全員に、相手を憎む動機があるとは思えませんからね。
 
「愛」のない「無関心」さこそが、人の「苦しみ」の元凶だと考えます。
人は「モノ」でいることに耐えられない。
 
しかし、この資本主義の社会。
人の「モノ」化が進むのは当然のことです。
偏差値教育や受験戦争で、人は一律な「モノ」として教育されます。
社会や企業は、人が形の整った標準化された「モノ」になった方が、
生産的効率的に人を扱うことができるからです。
 
何とか「モノ」化から逃れないと、人に「幸せ」は訪れない。
私は、今そう考える次第です。
 
それでは、「人」を「愛」するためには、
「人」を「モノ」ではなく、「人」として見るにはどうしたらよいか?
 
これは、「とても難しい」と感じています。
少なくとも、今の私にはできないことです。
 
このことを「考察」するためには、
「人」と「モノ」の違いは何か?ということに仮説を立てる必要があります。
 
「計測」できる成績や社会的地位等の「結果」や「スペック」のような「才能」は、
「モノ」に属するでしょう。
「モノ」の価値は、「スペック」や「結果」で測られますからね。
 
そうではなく、目に見えない「過程」、
すなわち「命」の燃やし方や燃焼自体にこそ、
「モノ」にはない「人」の根本があるのではないでしょうか?
例えば、「一生懸命」は「モノ」にはない「命」に関わる概念だと思います。
 
一方「才能」は、所詮「外」から与えられたものです。
「内」から発されるもののみが、「命」の煌めきだと考えます。
 
「人」を愛するとは、
その人の「外見」や「才能」や「社会的地位」のような「スペック」を
愛することではありません。
「命」を燃焼させることによる「暖かさ」、
過酷な現実においても日々「命」を燃焼させ続けている「一生懸命さ」を
愛することなのだと思います。
 
しかし、「人を愛する」と言葉で言うのは簡単ですが、
それの実践はとても難しいと考える次第です。
 
だから、私はまず上記のことを踏まえて、
「自分」を愛することに取り組もうと思います。
 
「結果」や「才能」は、「意識」の外に追い出して、
まずは「自分」の「命」を日々燃やす「一生懸命」さに「心」を集中させる。
そして、その「命」の燃焼の「暖かさ」に手をかざして、
「命」の「熱」を感じようとする。
 
前回のブログでも描いたように、
自分を「愛」することができれば、
自分が何者ということを感じることができるようになり、
本当の自分の「人生」を歩めるようになるような気がします。
 
私は今、「モノ」の仮面をかぶっています。
これからの私は、
私という「生命」が何者であるかを知り、
「モノ」の仮面を外そうとする者です。
本当の自分を、自分への「愛」や「自信」を持って表現できて初めて、
私は、温かく「人」を愛することのできる人間になれるのだろうと思います。
そこにこそ、「モノ」ではなく「生命」としての「幸せ」があると考える次第です。
 
今回のブログ記事を描いていて、
私はジブリ映画の「千と千尋の神隠し」で「カオナシ」のことを思い出しました。