「世界」との闘い方

「生きる」ことは「苦しみ」である。
ブッダは言いました。
 
私も、そう思います。
実際私も今までの「人生」、
様々な「ストレス」への対処に追われた「人生」だと思います。
 
私は、こうも想います。
私以外の人々や生命の「苦しみ」に「関心」を寄せれば、
この「世界」は「苦しみ」に満ちていると想える。
 
だから、「生きる」こととは「苦しみ」との「対峙(たいじ)」の道なのです。
「苦しみ」とは、現代的用語に言い換えれば「ストレス」。
 
では私たちは、どのように「ストレス」に「対峙」するのか?
そこは、ゲームと一緒です。
 
コマンドは、たった2つ。
「たたかう」か「にげる」かの2つに1つ。
 
「食欲」や「怠惰」等の「快楽」や、やつあたり等の他者への攻撃に「逃げる」か?
「世界」と「闘う」か?
 
ここで重要なのは、闘う相手は「外部」でなく「内部」にあるということ。
闘う相手は、過去の様々な宗教によって明確にされています。
 
すなわち、仏教で言うところの「煩悩」。
キリスト教で言うところの「7つの大罪」。
 
それは、現代の用語で言えば「本能」もしくは「遺伝子」です。
 
生まれながらに同居している「敵」。
それは、仏教やキリスト教でも明示されています。
キリスト教では、私たちは生まれながらにして「原罪」を持っているとされています。
仏教でも、「煩悩」は「マーラ」と呼ばれ、
私たちが真の「幸せ」を得るために闘わないといけない「敵」とされているのです。
 
そうして面白いのが、両方とも「蛇」がメタファーとなっていること。
「原罪」は、「蛇」がアダムとイブに与えた「リンゴ」から始まり、
「マーラ」は、「蛇」の姿をしています。
 
実は「遺伝子」も、DNAという「蛇」のように長い物質に刻まれているのです。
 
仏教でもキリスト教でも、「蛇」は自身の「内部」をたぶらかす存在として描かれています。
 
そう、私たちが真に闘うべきは私たちの「内部」に。
 
もし、「外部」の他者と闘うことがあるならば、
その時「内部」の「蛇」は笑っているでしょう。
 
本当に闘うべきは「内部」に。
 
まずは、冷静に「敵」を見極めることです。