「幸せ」を見つけるということ

私はこの「ブログ」で、「幸せ」について日々「考察」をしています。
かれこれ4年以上この「ブログ」を続けていますが、
「幸せ」の到達理論には、まだ道半ばです。
 
しかし答えが未だ出なくても、
実態がなく捉えどころのない「幸せ」を「考察」することには
とても意義があると感じています。
 
例えば、「幸せ」を見つけるという行為は何を意味すると思いますか?
ちょっと考えてみて下さい。
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あなたなりの「考察」はできたでしょうか?
私は4年以上「考察」して、こんな答えを出しました。
 
「幸せ」を見つけるということは、「生き方」の「正解」を見つけるということである。
 
「幸せ」を見つけたならば、ただ単にそれを愛でていても仕方ありません。
「幸せ」を見つけたならば、すぐにそこに向かわないと。
ようやく自分の生きている「目的」や「使命」が、見つかったのですから。
 
私は「人生」の歩き方には2つあると思っています。
 
一つは、具体的に目標を決めて、まずは行動する人。
こういう人達は、まずは行動をして軌道修正しながら最終的なゴールを目指します。
私には、今までできなかった「生き方」です。
私は、こういった「生き方」ができる人を尊敬します。
 
そしてもう一つは、最終的なゴールをじっくり見極めてから歩き出す人。
「考察」だけして、その考えた結果に向けて「行動」しなければ「意味」はないのですが、
じっくり見極める分、見極めて行動したら迷いなく進めて早いのかもしれません。
 
どちらの「生き方」にしましても、
今生で「ゴール」に少しでも近づくことに「意味」があるのかなと思う次第です。
 
そして、4年間「幸せ」について「考察」して、もう一つわかったことがあります。
 
それは、「幸せ」には万人の共通解がないということです。
ですから、誰でも信じれば「幸せ」になれるというお手軽な「宗教」には、
私は懐疑的な立場をとっています。
「考察」や「行動」の「過程」を抜きに、
「幸せ」という「結果」は得られないと感じている次第です。
もちろん「宗教」は、「幸せ」探しのとても重要なヒントをくれます。
 
ですから、外から与えられた「答え」を鵜呑みにすることなく、
自身が「幸せ」の求道者となって、主体的に情報に接していくことが大切だと思うのです。
 
 「人間とは、考える葦(あし)である」(パスカル
 
一人一人はとてもか弱い私たち人間ですが、
「考察」することでナイル川河畔に生える葦(あし)のように、
川の水の流れで横倒しにされても、何度も立ち上がることができるのです。