「わかってくれる人」と「わかってあげられる人」

こういうことを感じるのは、自分だけでしょうか。
 
世の中には「わかってくれる人」がいます。
波長が合うのか、その人と同種類の苦しみの経験がある同士なのか、
そこのところはよくわかりませんが、
世の中には「わかってくれる人」がいると、私は感じている次第です。
 
これはおそらく相性の面が多分にあると思います。
なぜなら、私にも「わかってあげられる人」とそうでない人がいるからです。
 
例えば子どもや動物とは仲良くできる私ですが、
そこの秘訣として子どもや動物のことは「わかってあげられる」という
漠然とした確信があります。
その相手がなぜそれをしたがっているのか、私には理解できる気がするのです。
 
もちろん大人であっても、
「わかってあげられる」という漠然とした感じを抱く人が少なからずいます。
今の職場は、恵まれた環境です。
上司や同僚を含め、
「わかってくれる人」や「わかってあげられる人」がたくさんいらっしゃいます。
 
私が「わかってくれる人」に敏感なのは、
私のコミュニケーション能力が低く、
(前々回のブログでも描きましたが)不器用であることが原因です。
 
人との繋がりが薄く、そして人との繋がりを求めるあまり、
その人が自分の表面を見ているのか、それとも中を見ているのか、感じる力が強くなりました。
 
そういう意味では、「わかってくれる人」というのは、
自分にチヤホヤしてくれる人ということではありません。
逆に自分に対して厳しい態度をとる人の中においても、
「わかってくれる人」は多くいると感じる次第です。
 
「感謝ノート」を一日の終わりにつけていると、
「わかってくれる人」の厳しい姿勢の中に「感謝」をより多く見つけられるようになりました。
 
そのように「わかってくれる人」の有り難さを実感する中で、
一つの疑問が湧いてきました。
はたして自分は、自分を「わかってくれる人」だろうか?
 
「いいえ、そうではない」というのが私の答えです。
私こそが、私を最も表面的に見てきたように思います。
 
なぜ私は、雑草を愛でるように自分のことを愛でることができないのだろう?
なぜ私は、動物を可愛がるように自分のことを可愛がることができないのだろう?
なぜ私は、子どもを心配するように自分のことを心配してあげることができないのだろう?
 
自分を「愛」することができないと、「自信」を持つことができません。
そして自分に「自信」を持てないと、「意志」を持つことができません。
「意志」を持てなければ、「行動」ができず、
「行動」ができなければ、「幸せ」になることができないのです。
 
上に描いたように、「わかってくれる人」「わかってあげられる人」は相性だと想います。
得てして、「自分と最も相性が悪いのは自分」というふうに、
世の中創られているのかもしれないですよ。
 
私のことを「わかってくれる人」をよく観察して、
自分に取り入れて、自分を「わかってあげられる」ようになりたいなと想います。
そういう意味でも、「感謝ノート」はとても役に立つ存在なのです。
 
それから突然ですが、ここまで描いてきて恋愛や結婚についても想うところがあります。
それは、恋愛や結婚の相手は、
「わかってくれる人」「わかってあげられる人」がいいのかなと考える次第です。
 
容姿や所得やステータスや能力よりも、もっと本質的なところで、
「わかってくれる人」や「わかってあげられる人」がそばにいたら、
それはとても「幸せ」なことではありませんか?