「感情」の「観念的二重化」

最近、「自由びと」さんと言う方に、
よくコメントを頂き、いろいろな「知識」を教えてもらっています。
 
哲学的な対話ができる人を探していたので、
楽しくコメントのやり取りをさせて頂いている次第です。
 
「自由びと」さんもブログを書いていて、
私もコメントを付けに行っています。
(ブログ「悟りを求めて・・・」)

さて今回「自由びと」さんから、
「観念的二重化」という概念を教えて頂きました。
 
私の解釈では、この「観念的二重化」の機能は「感情」を感じる際の安全装置です。
 
具体的に文章にアウトプットして、私の頭の中で整理していきたいと思います。
 
「感情」は刃である。
私は、そう考えています。
 
想像してみて下さい。
人から激しい「感情」をぶつけられたとき、それはあなたの「心」に刺さりませんか?
 
だから「感情」は危険物であると、私は考えてきたのですが、
「感情」にはもう一つ逆の側面がある訳です。
そう。「感情」は、相手の「心」を癒すこともできます。
 
例えば、子どもに対する「愛しい」という「感情」は、
子どもの「心」を芯から安心させる効能を持つ訳です。
 
そのような真逆の特徴を併せ持つ「感情」において、
むやみやたらに他者や自分を傷つけないようにするためには、
「感情」の刃の面が出たときに、
常にその対面の「感情」も意識するようにすればよい。
 
例えば、他者から「感情」による攻撃を受けたときに、
当然その他者に対してネガティブな「感情」が芽生えますが、
一方で「○○さんには、この前こんなことで助けて頂いた」等のカウンター「感情」を
意図的に意識するようにする。
 
そうすれば「心」のバランスは保たれ、
相手や自分を「感情」の刃で傷つけることがなくなる訳です。
 
そうして意図的にカウンター「感情」を持つことを続けていくと、
やがて無意識的にカウンター「感情」という安全装置が「心」に備わるようになります。
 
これを、「感情」の「観念的二重化」という訳です。
 
重要なことは、「感情」の「刃」を他者につきつけると100%自分も傷つくということです。
それは、因果的に他者が自分にとって不利な行動を採るということもあるでしょうし、
「感情」の「刃」で互いにつばぜりあいをして刃傷沙汰になることもあるでしょう。
更には「感情」の「刃」を他者に突きつけている状態は、
自身の「心」もイライラとさせ面白くない気持ちにさせていきます。
 
ですから「感情」の「刃」を抜くのは、相当の覚悟を決めたときのみ。
 
「切捨御免!」とばっさばっさ切ってよいものではありません。
 
実際「切捨御免」は、
武士が耐え難い「無礼」を受けた時は切っても処罰されないという江戸時代の制度ですが、
その運用はとても厳しいものでした。
 
ウィキペディアによりますと、
「切捨御免」の判定は厳格であり基本的に命懸けの権利でありました。
証拠が認められない限り死刑となる可能性が大きかったため、
「切捨御免」をしておいて、処罰を免れる例は極めてまれであったそうです。
 
人は誰しも「心」に帯刀している武士ですが、
人を傷つける「刃」を持っていることを常に自覚して、
武士のようにどっしり構え、
簡単に刀を抜いてしまわないように意識する必要があるのかなと思います。