「善」に甘んじない

「心」はバランスが重要だと、最近思っています。
 
ニーチェの示した「ルサンチマン」を見てもわかるように、
絶対の「善」なんてないと意識したときから、私はそう感じるようになりました。
 
ルサンチマン」とは、強者に抱く弱者の怨嗟。
つまり「善」とは、弱者が強者に対して優位に立つための妄想的根拠に過ぎません。
(詳しくは、過去ブログ『「ルサンチマン」と「真善美」』をご参照下さい)
 
わかりやすい例が、復讐です。
国家Aに蹂躙された国家Bがあったとします。
国家Bは、国家Aを恨みに思い、子ども達に国家Aは悪魔だと教え込む訳です。
そうして百年が経過して当時の人達は皆亡くなったある日、
国家Bの若者が見事国家Aの指導者を暗殺します。
国家Aの国民や指導者の家族が悲しむ一方、
国家Bでは、その暗殺した若者を英雄として祭り上げ彼の銅像を建てたのでした。
 
国家Bや国家Bの若者が行ってことは「悪」でしょうか?「善」でしょうか?
 
答えはシンプルです。
国家Aにとっては「悪」。
国家Bにとっては「善」。
 
これは、国家Aが国家Bに「それは悪だろ!」と叫んでも覆りません。
 
国際法があれば、ジャッジできる?
確かに法律的に白黒はつけることができても、それでも国家Bは彼の銅像を建てるでしょうね。
 
これは、現在の世界紛争の全てを表しています。
イスラム国にとって、自爆テロは彼らの中では「善」なのです。
これは決して覆りません。
また、日本への原発の投下を「善」と考えているアメリカ人も少なくないはずです。
 
ですから絶対の「善」を信じて行動しても、
表裏一体の「悪」がどうしても発生します。
「光」が差すところに必ず「影」があり、
「影」があるところには必ずどこからか「光」が差し込んでいるのです。
 
だからといって、私は「悪」を推奨している訳でもありません。
近視眼的に「善」に固執するのは、危険だと言っているのです。
 
その昔、中国の指導者毛沢東は、お米を食べてしまうスズメを害鳥と見なし、
国中に号令を掛けてスズメを駆逐するよう命令しました。
人民が頑張って中国からスズメを駆逐した結果、何が起こったか?
スズメの餌であった害虫が大量に発生し、
国は飢饉に陥り2,000万から5,000万人の餓死者を出したそうです。
 
毛沢東は、スズメを駆逐することを「善」と考えたのでしょう。
だけど自然界はそんなに単純ではなかった。
その偏った「善」は、「悪」として後世に伝えられます。
 
所詮、人間が「善」と判じるものには限界があるのです。
我々人間には、完全な「善悪」なんて判断できないと思った方がよいと思います。
 
そうではなくて、どうしても「悪」が入り込んでしまうと自覚した上で、
常によい「善悪」のバランスをとるという取り組み意識が重要だと考える次第です。
 
自分の普段自然にやっている「悪」にも目を向けるのです。
その上で「善」に取り組めば、「世界」に調和の取れた影響を与えられます。
 
このバランス感覚は、「真善美」の中で「美」です。
「善悪」と違って、
調和の取れた状態を愛する「美意識」は人に共通に備わっていると考えます。
 
私は今後「善」を目指すのではなく、
「心」の調和のとれた「美」を目指したいと考える次第です。
 
完全な「善」という妄想にすがってはいけません。
「善」を完璧に追求すればするほど、心ない「悪」がどこかに発生しているはずです。