「世界」の「本質」の「紐解き」(その4)
1月5日のブログ記事『「ルサンチマン」と「真善美」』に
流鑚識眞さんという方からコメントを頂きました。
かなりの長文のコメントだったのですが、
内容が本質的なことを表していると感じ、
複数回に分けてコメント文の紐解きをしている次第です。
今日は、4つめのパラグラフを紐解いていきます。
《生命観》 『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』 『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。 この双方の発展こそ生命の本質である。』 生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。 生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。 意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。 この為, 廃れる志向が生じる。 *己と自の発展 己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。 己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。 志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。 生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。 『志向(作用)→肉体・機構』 然の理・然性 自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。 然の理・然性(第1法則) 然性→志向性(第2法則) |
私は「生命」が好きです。
小学校の時の自由勉強でも、
ただひたすらノートに動物の図鑑から動物の説明を転記していたことを覚えています。
今も道を歩いていて目で追うのは、かっこいい車や店頭に並ぶしゃれた服ではなく、
小鳥や小動物や雑草です。
それゆえ、このブログ以前から「生命とは?」ということをずっと考えてきました。
その答えになるような本も何冊も読んできた次第です。
しかし、そんな私ですが、今回のパラグラフも難しく感じました。
まずは、一番上の項目。
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』 『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。 この双方の発展こそ生命の本質である。』 |
「世界」を感じる感覚器官を持ち、
昨日から今日と連続した意識を持っているというだけでは、
「生命」とは呼べないと書かれています。
「生命」の「本質」は、「己」と「自」の双方の発展なのだそうです。
「己」とは、感覚的目的地に到達するための具現機構としての躰。
「自」とは、記録としてある感覚的目的地に向かう志向性とその因子。
つまり、感覚的なある境地に達するために、
「脳を始めとした体」と「意思や意志」の双方が発展していくことが
「生命」の「本質」であると書かれていると思います。
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち、 これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。 |
「生命」は、その過去体験の感覚を記録する機構を持っていると。
その機構により生じた「感覚的目的地」を想像する因子を具現する手段として、
「生命」は肉体や機構を持っているということでしょうか。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。 意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり、 その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。 この為、廃れる志向が生じる。 『志向(作用)→肉体・機構』 |
然の理・然性 自己、志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。 然の理・然性(第1法則) 然性→志向性(第2法則) |