「世界」の「本質」の「紐解き」(その3)

1月5日に描いたブログ記事(「ルサンチマン」と「真善美」)に、
流鑚識眞さんという方からコメントを頂きました。
コメントの内容は、「世界」や「私(意識)」の成り立ちについてです。
 
その内容が、とても「本質的」なことを示していると感じたため、
複数回に分けて読み解きをしています。
今回が3回目です。
 
今日読み解くパラグラフを以下に記載します。

《思考》



『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』



思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)



『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。

 →思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』



『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。

 →言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』



考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
 
今日のテーマは「思考」です。
私は常に「思考」をして「ブログ」を描いているのに、
「思考」そのものについてはちゃんと考えたことがありませんでした。
 
まず、最初の部分。
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』



思考〔分解〕→思(表象)、考(判断機能)
 
「表象」とは、「心に思い浮かべられる象」のことだと思います。
つまり、「思考」のうち「思」「思う」とは何か対象となる象を思い浮かべること。
そして「考」については、「判断機構」の象であり、理性であると書かれています。
象とは、物の形のことです。
「判断機構」に形(名前?)を与えた物が、「考」なのだと推測します。
ですから「思考」を分解すると、
「心に思い浮かべられる象」+「判断機構」ということになる訳です。
 
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。

 →思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
 
「心に思い浮かべられる象」と「考」である「判断機構」とは別物であるので、
「考えている」からといって、その対象がいつも「心に思い浮かんでいる」訳ではない?
少しイメージが湧きませんね。
考えているのに、その対象が心に思う浮かんでいない状態ってあるんでしょうか?
 
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。

 →言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
ここは、意味がわかります。 「思考」から出た「言葉」でなければ、確かにそれは「意味」がない。 「意味」が内在されない「言葉」を聞いた第三者が 勝手に「意味」をつけることもあるかもしれませんが、 やはりその「音」は「言葉」ではないと考えます。 ですから、「言葉」は「思考」可能な領域のみで表される訳です。  
考、判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
  「志向」とは、「意識」が一定の対象に向かうこと。 「思」により心に思い浮かべられた複数の象。 これらの中から、「考」によって具現可能な象が対象として選択される・・・     さて、今日は「思考」について思考してみました。 「わかる」とは「分かる」と書きますが、 それはものごとを分解していくことこそが理解することだからです。   私は日頃から「思考」という概念をぼやーっと使っていましたが、 改めて「思考って何?」と問われると答えに窮してしまいます。 哲学とは、そういった当たり前に思っていた概念にメスを入れて分解して、 本当の意味で人間の頭脳で理解しようという試みなのかなと想う次第です。   「世界」って何でしょう? 「意識」って何でしょう? 「人生」って何でしょう? 「幸せ」って何でしょう?