「バランス」の「際(きわ)」を歩く

「人生」とは、とかく生きづらいものであります。
それは、あらゆる場面において「バランス」をとって生きないといけないから。
例えるなら、平均台の上を歩いているようなものです。
右にブレても危ないし、左にブレても危ない。
なるべく真ん中の方を歩いていく必要があります。
 
この原因の一つとして、私たちに与えられた「資源」が「有限」だからということがあります。
 
例えば、お金は「有限」です。
私たちは収入と支出の「バランス」をとって生きていかねばなりません。
簿記や会計というのは、この「バランス」をとるために生み出された知恵です。
中には支出のことを考える必要のない裕福な人もいるかもしれませんが、
そういった人達だって無限には支出できません。
単に、平均台の幅が人より広いだけなのです。
 
もう一つの「有限」であることの例えは、1日は24時間であるということです。
仕事に使う時間とプライベートに使う時間。
どちらかが100%でも成り立ちませんよね?
中には、例えば資産家で100%プライベートの時間に使えるという人もいるかもしれませんが、
そういう人ですら、自己鍛錬や慈善活動のような何かしらのタスクをしていることが多いです。
 
これは、「生命」が「調和」を愛するということに起因します。
なぜなら、「生命」は奇跡的な「バランス」の上に成り立っているからです。
例えば人の体温。高くても低くてもダメです。
例えば人体のpH。酸性過ぎてもアルカリ性過ぎてもダメです。
 
通常なら自然界のエントロピーの法則に従い、
体温が外の気温と同じ気温になってしまったり、食べたものにpHが影響されたりするはずです。
しかし「生命」は、死ぬまでの束の間の時間、このエントロピーの法則に逆らい続けます。
「生命」の本質的な側面は、絶妙な「バランス」を維持させるシステムなのです。
 
それゆえ「生命」は、「調和」を愛します。
「調和」して「バランス」が取れていることに、「美」を感じるのです。
 
想像して下さい。
親の資産で、目的もなくずっと遊び続けている道楽息子を。
これを「美」と感じますか?
それよりも、家族を抱え収入と支出の「バランス」を絶妙にとりながら生きている人に、
「美」を感じませんか?
 
私は「真善美」の中で、「善」は幻であるという見方をしています。
(詳しくは、過去ブログ『「ルサンチマン」と「真善美」』をどうぞ)
「善」と「悪」という両軸。
もちろん「善」側に大きく意識を向けた方がよいですが、
「善」100%を目指そうとすると、そこに罠が生じます。
例えばイスラム原理主義者の自爆テロは、100%彼らの「善」に従ってやっていることですよ。
もしくは、復讐はどこまでが「善」か?
老若男女皆殺しにされた部族Aの生き残りの若者が、
相手の部族の老若男女を惨殺したとき、それは「善」でしょうか?「悪」でしょうか?
 
このように、何が「善」で、何が「悪」かは、立場によって変わるのです。
ですから絶対的な「善悪」なんて存在しないと、私は考えています。
 
そうではなくて、私たち「生命」が追求すべきなのは「調和」という「美」なのです。
「善悪」をとことん追求したら、極端な話戦争になります。
 
ちょっと想像してみて下さい。
極端な「善」を唱え続ける人を「美」と感じますか?
70年前の「ルサンチマン」のみを唱え続け、現在と未来に目を向けようとしない隣国。
ネット上で、よく「お花畑」と揶揄される理想論のみに生きる人達。
 
「バランス」が重要なのです。
もちろん、日本におけるカウンター的な差別主義も危険なほどに偏りすぎています。
 
「理想」と「現実」。「過去」と「未来」。「攻撃」と「許し」。
どちらか一方では、ダメです。
「生命」とは、自身の体だけではなく、
この「世界」にも「調和」をもたらそうとする存在なのだと私は想います。
地球が宝石のように「美しい」のも、「生命」がもたらした「調和」の賜なのです。
 
「テーゼ」と「アンチテーゼ」、「陰」と「陽」。
昔から、両軸の「統合」を図ることが重要だと言われています。
「バランス」がとれて初めて、全体の風景を落ち着いて眺めることができるのです。
 
このように「考察」したとき、私たちがどのように生きたらいいかが見えてきます。
両軸両方を認め、可能な限り平均台の真ん中を見極めるのです。
そうして、「バランス」の「際(きわ)」を歩いていきましょう。