「世界」の「本質」の「紐解き」(その6)
1月5日(月)に描いたブログ(「ルサンチマン」と「真善美」)に、
流鑚識眞さんという方からコメントを頂きました。
その内容が本質的であると感じたため、
複数回に分けて読み解きをしている次第です。
難解な文章ですが、真剣に考え丁寧に読み解いていくと、
自分の哲学的思考の幅が広がることを感じます。
さて、今回は6回目です。
【真善美】 真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。 真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。 真の在り方であり, 自己の発展とその理解。 善は社会性である。 直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。 三命其々には欠点がある。 直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。 従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。 これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。 △→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る) 千差万別。 命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。 個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。 美は活活とした生命の在り方。 『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が 区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』 予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。 予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互作用して これを成し遂げようとする生命の在り方。 |
今回はずばり、「真善美」に関する言及です。
まずは、「真」について述べられています。
真は空(真の形・物)と質(不可分の質、側面・性質)、 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。 真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し、 その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。 真の在り方であり、自己の発展とその理解。 |
やはり「真理」というものは一番難しいものですね。
「善」と「美」の記述は理解できたのですが、「真」は一部解読できていません。
それでも内容を追っていくと、
「真」は以下の2グループの概念を理解することで齎(もたら)されるようです。
(1)空(真の形・物)と質(不可分の質、側面・性質)
(2)然性(第1法則)と志向性(第2法則)
(1)について見ると、
冒頭のパラグラフに登場したイデアに関する記述とつながっていると思われます。
イデアとは、哲学者プラトンが唱えた世界観です。
その世界観では、本当に実在するのは「イデア」であって、
我々が肉体的に感覚している対象や世界というのはあくまで「イデア」の「似像」にすぎない、
とされています。
(詳しくは、過去ブログ『「イデア」の世界に連れてって』をご参照下さい)
今回の文章では、「空」が「イデア」もしくは「世界」の裏側の機構であり、
「質」がその「イデア」が顕在化して私たちの肉体で関知できる姿であると解せる訳です。
(2)についても、一つ目と二つ目のパラグラフからつながっています。
「然性」とは、
私という意識、世界という感覚そのものの原因が、
あらゆるところに普遍的に存在するということ。
「志向性」とは、
「然性」という世界に普遍的な性質の中で、
感覚的目的地に向かおうとする「生命」の足掻きのこと。
「生命」にとって「真」とは、
「空」と「質」という「世界」の法則を知り、そこに様々な可能性があることを理解した上で、
積極的に新たな感覚的目的地に向かおうとする「生命」の在り方のことだと思われます。
・・・う〜ん、やはり少し理解不足ですね。
ある程度までは読み解けたと思うのですが、描いていてまだしっくり来ません。
さて、次に「善」についての記述です。
善は社会性である。 直生命(個別性)、対生命(人間性)、従生命(組織性)により構成される。 三命其々には欠点がある。 直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。 従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。 これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。 △→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る) 千差万別。 命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し、 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。 個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き、 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。 |
「善」は社会性であると描かれています。
しかしこの「善」は、ある状態を指す静的なものではなく、
常に社会において循環する動きを追求する動的なものであるとのことです。
この循環とは、以下のジャンケンのような関係で成り立っています。
「△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△」
この一巡をして初めて進展が成される訳です。
まず生命の個別性がぶつかりあって命あるゆえの痛みを知り、人間性が育まれる。
しかし、痛みを知ったことで他への干渉が難しいことを知り、閉塞感が生まれてしまう。
そうした時に、組織に属して仲間と人生を共にすることで閉塞感を克服する。
ただし組織に属すると、やがて自身の役割に執着するようになり組織の硬直化が起こる。
こうした時に、生命の個別性を理解した上で、組織内の流動化を実現する。
組織内が流動化すると、個のぶつかり合いが発生し・・・(以降ループ)
こうしたスパイラルを昇っていくことが、「善」の本質であると。
この考え方は、結構いけますね。
世の中で言われている「善」の定義って、概ね以下の3つのグループに分かれると思うんですよ。
(1)直生命(個別性)→個々の自由
(2)対生命(人間性)→優しさ
(3)従生命(組織性)→社会性
「善」とは自由だ!優しさだ!いいや社会性だ!という議論がなされることがありますが、
そうではなくてこの3つの循環であるという説明は、非常にしっくり来ます。
イスラム原理主義者の自爆テロは、
従生命(組織性)に属した「善」が肥大化した結果でしょう。
この「善」に対抗するには、
直生命(個別性)の「善」をイスラム原理主義者達に認識してもらう必要があります。
うん。この考え方は非常に興味深いですね。
さて、最後に「美」です。
美は活活とした生命の在り方。 『認識するべき主体としての自分と、認識されるべき客体としての世界が 区分されていないのに、何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』 予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め、 それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。 予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互作用して これを成し遂げようとする生命の在り方。 |
「美」は生き生きとした「生命」の在り方。
どのような「生命」の在り方が生き生きしているかと言うと、
自分の願望を諦めることなく自分の願望を成し遂げようとする在り方です。
そのためには、予知の悪魔(ラプラスの悪魔)を否定すること。
予知の悪魔(ラプラスの悪魔)とは、
フランスの数学者ラプラスによって提唱された架空の生物です。
その生物は全ての自然法則を知っているので、
未来も100%予知することができるとされています。
(ラプラスの悪魔のウィキペディアは、こちら)
しかしこの存在は、量子力学の発展によって否定されました。
「世界」は法則に支配されない何らかの不思議な確率で動いているのです。
そして量子力学の世界では、
「意識」の介在が、確率の雲から実際の事象を決定するとされています。
科学の発展の様相は、どんどん私たちの常識から離れていっているのです。
(詳しくは、過去ブログ『「シュレーディンガーの猫」』をご覧下さい)
今回の文章でも、「認識」が物事の確率に作用すると書かれています。
科学を万能だと信じ、考えることを科学者に委ねてしまった多くの人達は、
「認識」が物事の確率に干渉するという見解をマユツバだと感じるでしょう。
でも、今私がここにいるという意識とか、命とか、普通に不思議に感じませんか?
不思議に感じない人達は、ラプラスの悪魔に魅入られているのです。
全てが決定論で決まらないというのが、
量子力学でも言われている「世界」の「真実」である訳です。
「生命」の「認識」の力を信じ、
「運命」を切り拓く在り方が「美」であると、この文章では語られています。
さてさて、ここのパラグラフも、実に興味深かったです。
ここまで読んで、前の不明な部分の理解が進んだところもあります。
ところで、気になってこの文章の一部で検索をかけたら、
他の多くのブログにもコメントとしてマルチポストで貼付けられていました。
でも、多くの人はそのコメントに対して無視をしているようです。
ここまで真剣になって読み解いている物好きは、私ぐらいかもしれませんね(笑)。
まあ、面白いからいいんですけど。