「世界」の「本質」の「紐解き」(その5)

「ルサンチマン」と「真善美」』という1月5日に描いたブログ記事に、
流鑚識眞さんという方からコメントを頂きました。
結構な長文ですが、とても本質的なことが書かれていると感じ、
複数回に分けて「読み解き」をしている次第です。
今回は全7回のうち、5回目となります。
今回のパラグラフはとても長いですが、一番「心」に響いた部分です。
 

【世界創造の真実】



世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。

だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。

しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。

すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。

なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。

これは神と人に共通する倒錯でもある。

それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。



しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。

だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。

いや, そもそも認識するべき主体としての自分と,

認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに,

何者がいかなる世界を認識しうるだろう?



言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。

あれは空, それは山, これは自分。
しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。


山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。

自分というものはない。

自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。



これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで

互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。



例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が

鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。

それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。

そして鏡を通じて世界を認識している我々が,

その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。

鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく,

同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。

なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。



そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。

言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け,

その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。

だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。



愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。

神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。

それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。

私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。



私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い,

逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し,

よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。

これこそが神の世界創造の真実である。



しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている,

完全に誤てる認識であるに過ぎない。

だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。



「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」



同様に同じ根源的無知を抱える人間,

すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。



「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」



神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく,

互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり,

各々の存在性は虚妄であるに違いない。



あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら,

あなたが世界を認識しているという証明も出来ず,

互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり,

つまり別のものではなく同じものなのであり,

であるならいかなる認識にも根源的真実はなく,

ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
 
まさに「世界」とは何か?という部分に迫る文章だと思います。
私は聖書にあるような、誰かがこの「世界」を創ったという解釈には、
直感的に違和感を覚えます。
 
まずは私がここにいるという事実。
それ以外の事実とされているものは、全て外部からの情報であり、
その真偽を確かめようがない訳です。
 
 我思う、故に我あり
 
この「私がここにいる」という絶対的な事実から始めなければ、
どんな解釈も推測に過ぎません。
つまり、思い込みに過ぎないのです。
極論をすれば、「1+1=2」を絶対の真実として科学が成り立っている訳ですが、
「1+1=2」が真実でなければ、科学は虚構になってしまいます。
 
実際に「ゲーデル不完全性定理」では、
数学理論において証明不可能な命題が存在し、
数学理論自身に矛盾がないことを数学を使っては決して証明できないことを
証明してしまっているのです。
数学を突き詰めていっても、決して真理にはたどり着けません。
 
さて「ゲーデル不完全性定理」は非常に難しく、
飲茶さんという方の「哲学的な何か、あと科学とか」というブログを参考・引用させて頂いた次第です。
 
ブログを描き始める前に、私はネットでこの方のブログに出会い、
その非常に興味深いコンテンツとわかりやすい文章にものすごく惹かれ、
全ての記事を読みました。
飲茶さんの「哲学的な何か、あと科学とか」が、私に与えた影響はとても大きいです。
哲学に興味がある方や、目の前の現実に悩んでいる方は、是非このブログを読んでみて下さい。
新たな扉が開かれると思いますよ。
 
話が脱線しました。
そんな訳で「真実」は、
「自分がここにいること」と「自分が真実だと直感すること」を足場にすることが
安全だと思う次第です。
「科学」のことを真偽不明と述べましたが、「科学」は私の中では直感的に正しく感じます。
それは、とても理論的だからです。
それよりも「科学」に追いついてこれない伝統的な宗教コンテンツに違和感を覚えます。
伝統的な宗教もその「本質」は継承しつつ、
一度スクラップ&ビルドして、時代の最先端の「知恵」に適合させるべきです。
そうでなければ弊害ばかり多く、せっかくの「価値」ある「本質」がもったいないと思います。
今「超訳」という過去の「教え」を現代社会に適合させて訳している書籍がブームです。
聖書も「超訳」にしたらいいのになと思います。
怒られちゃいますかね?
聖書にも現代社会にも通じるいいことがたくさん書いてあると思います。
 
・・・ああ、また脱線です。
さてさてそんな私の直感レベルで、今回の文章を上から読み解いていきます。

【世界創造の真実】



世界が存在するという認識があるとき、認識している主体として自分の存在を認識する。

だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。

しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。

すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。

なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。

これは神と人に共通する倒錯でもある。

それゆえ彼らは永遠に惑う存在、決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。



しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。

だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。

いや, そもそも認識するべき主体としての自分と,

認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに,

何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
 
まず、「私」という主体が「世界」を「認識」する。
これが、全ての始まりです。
「私」がここにいて、「世界」がここにあるという、客観的事実は存在しません。
まず「私」が「世界」を「認識」しているという事実しか、そこには存在しないのです。
 
そうしたときに、「私」が「私」を「認識」しているというのは、
実は「世界」を観察した上で、その「世界」を鏡として「私」を見ているに過ぎません。
「私」が鏡の風景に過ぎないのであれば、「世界」と「私」は不可分なのです。
そして「世界」と「私」が区分できない一連の事象だとすれば、
「世界」を「認識」しているという「私」は、何者であるのか?
 
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し、分節することができる。

あれは空、それは山、これは自分。
しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。


山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。

自分というものはない。

自分と名付けられ、名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。



これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで

互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。



例えて言えば、それは鏡に自らの姿を写した者が

鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。

それゆえ言葉は、自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。

そして鏡を通じて世界を認識している我々が、

その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。

鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく、

同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。

なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。



そのように私たちは、言葉の存在に無自覚なのである。

言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け、

その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。

だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。



愛、善、白、憎しみ、悪、黒。そんなものはどこにも存在していない。

神、霊、悪魔、人。そのような名称に対応する実在はない。

それらはただ言葉としてだけあるもの、言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。

私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。



私たちの認識は、本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い、

逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し、

よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。

これこそが神の世界創造の真実である。
 
「言葉」というものが、「世界」の一体感を妨げているのです。
 
 はじめに言葉ありき
 
「言葉」というものができた時から、まず「世界」と「私」が区分されてしまいました。
そして、言葉は「世界」のあらゆる物に区分を設け分断し、
更には「世界」のどこにも存在しないものにまで「言葉」によって存在を許したのです。
そうだとすれば「言葉」を有しない「生命」は、
「世界」と「私」を区分せずに一体のものとして捉えている可能性があります。
ただそこには、「世界」への「認識」があるのみ。
「世界」は「世界」。それ以上の区分はありません。「私」すら区分されていないのです。
 
さて手話を人間から教わったゴリラのココには、明らかに「私」という認識がありました。
(過去ブログ:「泣いたゴリラ」)
「言葉」を知らない野生のゴリラと、「言葉」を知ったゴリラのココ。
両者の世界観には、天地ほどの差がある可能性があります。
 
このように「言葉」を知ってしまった人間は、
「言葉」によって「世界」という実態をめちゃくちゃにかき回してしまったのです。
 
しかし真実は、根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている、

完全に誤てる認識であるに過ぎない。

だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。



「お前が世界を創造したのなら、何者がお前を創造した?」



同様に同じ根源的無知を抱える人間、

すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。



「お前が世界を認識出来るというなら、何者がお前を認識しているのか?」



神が誰によっても創られていないのなら、世界もまた神に拠って創られたものではなく、

互いに創られたものでないなら、これは別のものではなく同じものであり、

各々の存在性は虚妄であるに違いない。



あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら、

あなたが世界を認識しているという証明も出来、

互いに認識が正しいということを証明できないなら、互いの区分は不毛であり虚妄であり、

つまり別のものではなく同じものなのであり、

であるならいかなる認識にも根源的真実はなく、

ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
 
聖書や各種神話にあるように、「神」が「世界」を創造したのなら、
「神」は一体誰が創造したのか?という問いかけは、昔からよくされているものです。
「神」という言葉で「思考停止」してはいけません。
「神」を創造した存在という無限ループの「矛盾」を解けなければ、
この命題は「真」ではないのです。
 
「神」が「世界」を創造したというのなら、
「神」は「世界」の外側の存在ということになります。
じゃあその「神」創造したものを探ろうとすると、更に外側の存在を設定しないといけない。
これは、無限ループになりますよね?
 
この矛盾から導き出される答えは、「神」という存在も「世界」の内側にあるということ。
誰が創造したとかはなく、「ただそこに一体としてある」ということ。
 
同様に、「私」が「世界」を認識しているということも、無限ループの矛盾を生みます。
「私」が「世界」を認識しているということは、「私」は「世界」の外側にいるということ。
ならば、「私」を認識しているものは何者なのか?
「私」を認識している者も「私」としたら、「私」の更に外側に「私」がいることになります。
じゃあ、その「私」を認識している者は・・・
はい、無限ループの出来上がりです。
 
表計算ソフトのエクセルを使える人なら、
上記の矛盾を実際に簡単な実験で確かめることができます。
「A1」のセルに、「=A1」と打ち込んで下さい。
エラーが出るはずです。
 
「私」が「私」を認識するという自己参照は、そこに実態を生み出すことができません。
 
「世界」の外側に「私」、「私」の外側に更に「私」、
という無限ループから導き出される答えは、
「私」という存在も「世界」の内側にあるということ。
誰かが認識しているとかはなく、「ただそこに一体としてある」ということ。
 
 「ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。」
 
さてさて、もうそろそろ終わりにします。
ずいぶん長い文章になってしまい、ごめんなさい。
今回の読み解きの中には、自分の考えとは多少異なる部分もあります。
(私の解釈が誤っている可能性も大いにありますが・・・)
それは、「言葉」を持たなければ「私」と「世界」を区分して認識できないというところです。
実際に、カササギやゾウ、イルカ、類人猿など高度な脳を持つ動物は、
鏡の象を自分と認識できる知能を有しています。
カササギのミラーテストのウィキペディアは、こちら
もしかしたら、彼らは簡便な「言葉」を有しているのかもしれませんね。
 
しかし、今回は収穫が多かったです。
難題を考えてそれを描くことで、自分の思考の殻を一つ突破できたように思います。