「真」→1、「美」→2、「善」→3

最近「真善美」について、ずっと考えています。
私たち「生命」にとっての「本質」的な追うべき「目的」が何か、気になるからです。
 
さて「生命」と「モノ」を区分する線引きとして、「目的」の有無があります。
例えば道ばたの「石」には、「目的」がない訳です。
一方で「生命」には「目的」があるため、「生命」は動的に変化し続けます。
「モノ」には「目的」」がないため「理想」の状態というのものはありません。
一方で、「生命」には「理想」の状態がある訳です。
 
さて「理想」という日本語は、明治時代に創られました。
プラトンによる哲学思想「イデア」を直訳して創られたのです。
 
イデア」とは現実世界の投影元であり、
「真善美」を示す十全で過不足のない状態の世界をイデアと呼びます。
(引用元のウィキペディア
(参考過去ブログ:「イデア」の世界に連れてって

プラトンは、現実世界は理想的な世界「イデア」の投影であり、
理想「真善美」を求める活動が物事の本質だとした訳です。
 
さて、日本語の「理想」と「真善美」のつながりの深さを理解頂いたと思います。
 
そこで私は、「生命」の「本質」である「真善美」について考える訳です。
 
自身の「考察」の深掘りと流鑚識眞さんから頂いたコメントの読み解きを通じて、
私は「真善美」に対する一つの読み解き方を得ました。
 
それは、『「真」→1、「美」→2、「善」→3』ということです。
 
説明していきます。
 
まず「真」と「美」。
それぞれに対立語をつけると「真偽」と「美醜」になります。
両者は対立語をくっつけた似たような構造の言葉に見えますが、
実は大きな違いがあるのです。
「真偽」について見ますと、「真」と「偽」の中間の状態は存在しません。
一方で「美醜」には、「美」と「醜」の中間の状態が存在する訳です。
 
これは、「真偽」は「世界」に「真」という一つの「極」しかないのに対し、
「美醜」は「美」と「醜」の二つの「極」があることを意味します。
 
次に「善」は、追っても追っても究極の状態が見えない三すくみの状態です。
すなわち流鑚識眞さんのコメントにあるように、
「善」は、
『個々の「自由」→対人への「尊重」→組織への「貢献」→個々の「自由」』というループを
繰り返して進展していきます。
「善」は、「自由」「尊重」「貢献」という3つの状態を持つ訳ですね。
しかしどれも、一つだけ追求しても弊害が出てしまいます。
例えば、「自由」を求めすぎれば社会生活において角が立ちます。
対人への「尊重」を求めすぎると、人間関係に閉塞感がもたらされます。
そして、組織への「貢献」を求めすぎると、社会が硬直化していきます。
 
イスラム原理主義者の自爆テロは、
組織への「貢献」という「善」が肥大化した結果だと私は考える次第です。
 
ですので、「善」は常に「自由」→「尊重」→「貢献」→という3極を、
螺旋状に昇って追求されます。
 
以上のような理由で、『「真」→1、「美」→2、「善」→3』という考えに至った訳です。
 
「生命」としての理想的な在り方。
それは、常に「真」であることを認識し、常に「美」へと向かい、
常に3つの「善」を回していく在り方なのかなと思います。
 
「生命」という飛行機は、「善」のプロペラを回すことで、「美」への推進力を得る訳です。