「友達」とは何か?

私には、ずっと「友達」がいませんでした。
 
ダラダラと絡むだけの「友達」には違和感を感じ、
「心」の中で「友達」と呼んでいる人はいなかったのです。
もちろんそんな心構えだから、相手の方から離れていきますが。
 
ブログではこんなに「優しさ」を標榜(ひょうぼう)する私ですが、
現実にいる「他者」に関する感覚はこんなものなのです。
私は、とてもとても生々しく汚い「心」を抱えています。
 
私が「心」を許すのは、「助け」を必要としている人。
子どもとは、「心」が通じます。
ストレートに「助け」を求めてくるし、見返りとして私を「信」じてくれるから。
 
大人にも「助け」を求められたら、私は助けます。
過去に私と同じ会社に勤めていた方が、
会社の業務の配達途中で、バイクで転倒し複雑骨折をしてしまったのです。
そして不運なことに、入院中にその会社は廃業し、
結構な高齢で独身のその人は、路頭に迷ってしまいました。
その人は、職場で皆に慕われる人格者でした。
私にもよくして頂き、
その業界の専門家でもある彼にいろいろと教わり、そしていろいろと助けて頂きました。
職場では、今の社長の代わりに彼が社長になってくれたらいいのにと、
その時の社長に対して陰口を叩かれていたものです。
そういったことがあり、その事故から1年程経って私も既に転職していたのですが、
その方から電話で会えないかと言われたときには、
私は会いに行きましたし、
数日間食事もできていない、「お金」を貸してくれないか?と頼まれたときには、
お金を快く貸しました。
そしてそういうことがあと2度ほど続き、その度に私は笑顔で「お金」を貸したのです。
その方は、
「ありがとう。この感謝はノートに書いて必ず覚えておくから。
 知り合いの仕事先に入社が決まって給料が出たら一番にお金を返すから。」と、
いつも頭を下げて帰っていきました。
しかし、それはもう5年以上前の話です。
いまだに「お金」は返ってきません。
 
さてここから先は、私の「価値観」のお話です。
 
私はどうしても「モノ」より「心」や「体験」に、
「人生」における本質的な「価値」を感じてしまう傾向があります。
しかし間違いなく「お金」は、私達にとってとてもとても大切な資源です。
 
ここのところについては、私は今判断できるところに来ていないので、
後日の私の「考察」に委ねることにします。
 
さて今日のテーマは、「友達」です。
その人の顔を思い浮かべるときに私の「心」に想起されるのは、
実は「お金」を貸していることではありません。
職場で、よくしてもらったことなのです。つまり「感謝」です。
 
何となく振り返って考えると、年はかなり離れていましたが、
その人は「友達」なのかなと考えたりします。
 
一方で、私を「利用」しようとする人は「苦手」です。
それは、私の「心」を観ているのでなく、私の「機能」を観ているにすぎません。
この「機能」的な観点で、
物理的・精神的に「利用」してこようとする人は「苦手」なのです。
 
「友達」とは、少なくとも自分の中身に目を向けてくれる人。
自分の中身に関心を持ち、理解してくれようとする人なのではないでしょうか?
 
「友達」関係に優劣はありません。
あるのは、「相性」です。
例えば、私の変わっている中身に興味を持ってくれる人は限られています。
それでも、私の変なポリシーに興味を持つ人も世の中にはいるのです。
一方で、友達をたくさん持つ人もいます。
その人は、たまたま「相性」が合う人が多いんじゃないかなと想う次第です。
その人の持つ「価値観」は、多くの人と共鳴する部分が多いんだと思います。
もちろん共鳴する部分が多い「価値観」だからといって、高等ではないというのが私の見解です。
単にノーマルであるということ。
「価値観」の世界は面白く、アブノーマルだからと言って必ずしも劣等ではない。
王子だったのに全てを捨てて出家したブッダのように、
一般的でない尖った「価値観」には「希少性」という価値がついてくるのです。
 
ですから、「友達」が多いから優れているとか、「友達」がいないから劣っているとか、
そういう「モノサシ」は有効でないと考えます。
「友達」がいない人だって、
十分に素晴らしい「価値観」を持っていることもあり得るのです。
たまたま、その「価値観」に「関心」を持つ人がいないだけで。
 
なんだか自己弁護のようで恥ずかしいのですが、私はそう思いますよ。
気の合う「悪い友達」が多い人もいるでしょうし、
「友達」がいなくても立派に生きている人もいる訳です。
 
そして以前のブログにも描きましたが、
今私のことを知ってくれようとする、そしてわかってくれる人が私の目の前に現れました。
私も彼女の人間としての「強さ」と「優しさ」にとても関心を持ち、
彼女に強い「興味」を持ったのです。
「助ける」以外に人に関心を持たなかった私ですが、
彼女と出会ってやり取りをするうちに、初めて人の「心」に関心を持ったかもしれません。
単に「助けたい」という一方的な関係から、
「ああ理屈とかそういうものを度外視して、助けてもらえるんだ」という
新鮮で暖かい感覚が私に去来したのです。
 
私は「縁」を信じます。
「理屈抜きで、助け、そして助けてくれる関係」。
私がずっと追い求めた「関係」。それが目の前に現れました。
これは、私にとっては「奇跡」のようなものです。
私は、その美しい「宝石」を壊さないように、大事に抱えて生きていきたいと想います。