『一杯のかけそば』を読み返す。評価し直す。

今日は『一杯のかけそば』について、記事を描きたいと思っています。
きっかけは、ブログのコメント欄でのやり取りです。
 
一杯のかけそば』を昨日久しぶりに読み返しました。
「お涙頂戴だっけ?」となめて読み始めたら、しょっぱなから涙腺崩壊でした。
(『一杯のかけそば』全文は、こちら
 
私は、ウィキペディアも調べました。
(『一杯のかけそば』のウィキペディアは、こちら
 
そうすると、非常に面白いことがわかりました。
以下は、ウィキペディアからの引用です。

実話を元にした童話という触れ込みで涙なしでは聞けない話として、

1989年に日本中で話題となり、映画化されるなど社会現象にまでなったが、

実話としてはつじつまの合わない点・作者にまつわる不祥事でブームは沈静化した。

映画化まで、されていたんですね。
ウィキペディアを読めばわかりますが、
当時フジテレビ『タイム3』では中尾彬武田鉄矢森田健作などの有名人を迎え、
一週間の間を連日「一杯のかけそば」を朗読するまでに至ったようで、
一杯のかけそば』は、確かに日本社会の当時を象徴する歴史の1ページを築きました。
 
また『一杯のかけそば』は、中国の小学校6年生の教科書にも載っているそうです。
(詳しくは、
 ネット記事「「一杯のかけそば」に涙する中国人続出、大みそかを前にブーム再来か」
 ご覧ください)
一杯のかけそば』は、日本が世界に発信するソフトパワーにもなっていたのです。
 
またこの『一杯のかけそば』にまつわる面白い話としては、
衆議院予算委員会審議において公明党大久保直彦氏が竹下登首相に対する質疑で
当時話題となっていた本作のほぼ全文を朗読・紹介して、
リクルート問題に関する質問をし、
同じ自民党金丸信氏も泣いたということで話題になったそうです。
 
金丸信氏と言えば、
当時の日本政界のドンで収賄疑惑の悪徳政治家というイメージを、私は持っていました。
 
しかしこの話に涙を流された金丸信氏を想像し、
苦労してきた人間味のある方なんだろうなというイメージが新たに付加された次第です。
 
なんだろう?
この『一杯のかけそば』は、
無様でも日々「一生懸命」生きている人々の「琴線」に触れる作品だと思います。
 
この作品の作者の栗良平さんは、
車の借り逃げで捜査対象となったことや、
小児科医を詐称して治療費を受け取った疑惑スキャンダルで叩かれ、
当時を生きてきた誰もが知る『一杯のかけそば』は、
わずか半年にしてブームの終焉を迎えるのです。
 
確かに、作者の栗良平さんが起こしたであろうスキャンダルは、
社会的に許されるものではありません。
しかし、親の罪が子にも引き継がれるという意味不明な価値観のせいで、
この作品自体が、
「あれって実話って言ってたけど、本当は創作なんでしょう?」
「感動して涙を流して損したよ。」
という評価を受けてしまうのはもったいないと思うのです。
現に私も昨日この作品を読み返すまでは、この作品にネガティブなイメージを持っていました。
この作品は、評価されて然るべきです。
この作品を知らない若い世代の人達にも、是非読んで欲しいです。
 
人間の中を一言で語ることなどできません。
この作者のやってしまった罪とは別の部分で、
この作者はとても苦労して「一生懸命」生きてきたのではないかと想像する次第です。
そういった部分がなければ、
「一生懸命」生きている人達の琴線に触れる作品は書けませんから。
 
金丸信氏についても同様です。
収賄の悪徳政治家という一面もありますが、私は彼の人間味も理解したいと思います。
金丸信氏のウィキペディアによれば、
彼の政治家を目指した動機は、以下の通りです。
当時酒造業を営んでいた彼が、
税務署の「造酒屋は、酒を密造し、税をごまかしている」という態度に怒りを覚え、
政治の道を志したという。
世襲の政治家とはひと味違うものを、感じませんか?
私は、彼に人間味を感じる次第です。
 
私も含めて多くの人々は、一面的に物事を見てしまったら、
そこから先、その対象への興味を失ってしまいます。
前回のブログでも描きましたが、
「言葉」を使用する「思考」の性質は、アナログでなくデジタルです。
一度情報が「言葉」で整理されてしまうと、
その情報は処理済みのフォルダに入り、
そこで物事を把握したつもりになってしまいます。
物事の名前を知ったら、その対象についてわかったつもりになってしまうのと一緒です。
桜の花の名前を「ソメイヨシノ」と知ったら、もうそこで関心がストップしてしまう。
過去の私の「ソメイヨシノ」に関する記事を読んでみて下さい。
ソメイヨシノ」についてこんなに興味深い情報が、まだまだ存在するのです。
 
それから、我々日本人には潔癖症なきらいがあります。
作者がスキャンダルを起こしたって、作品は作品で別人格なのです。
 
かつて、中国の指導者であった訒小平氏は言いました。
「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」
 
中国の小学校6年生の教科書に『一杯のかけそば』が載っていることには、
「さすがだな」と感心しました。
よいものはよいもの。
出自を気にしていたら、失うものは大きいのです。
 
私は想います。
今一度日本でも、『一杯のかけそば』にスポットライトが当たる日が来ることを。
 
今日は『一杯のかけそば』から、故金丸信氏や故訒小平氏に話がつながりました。
 
「考える」ことの素晴らしさ。「描く」ことの素晴らしさ。
私は、今日も楽しく文章を描いています。