「正しい」は、危険物

私は先日職場の同僚から、
「嫌われる勇気(岸見 一郎/古賀 史健:著)」という
70万部販売のベストセラー本を紹介して頂き、読みました。
 
この本は、アドラー心理学という心理学を対話形式で紹介している本です。
アドラー心理学は、アルフレッド・アドラーによって創始されました。
ルフレッド・アドラーは、フロイトユングと並ぶ心理学三大巨匠の一人なのだそうです。
日本では無名に近い存在ですが、欧米での人気は抜群で、
多くの自己啓発書の源流ともなっています。
アドラー心理学ウィキペディアは、こちら
 
非常に興味深い内容で、後日ブログで詳しくご紹介したいと思っている次第です。
 
さて今日は、読んでいて「なるほど」と思った部分があったので、
それについて「考察」したいと考えています。
対人関係における話です。
 
上記ウィキペディアによりますと、
アドラー心理学における人間とは、
人間は相対的にマイナスの状態(劣等感を覚える位置)から、
相対的にプラスの状態(優越感を覚える位置)を目指して行動します。
すなわち人間は、他者に優越感を覚えると快を感じ、
他者に劣等感を覚えると不快を感じるのです。
これは、自身の実体験から何となくわかりますね。
私達人間は、なぜかはわからないけど、優越感を麻薬のように求めるのです。
 
さて上記書籍「嫌われる勇気」には、
「正しい」という言葉について、こんなことが書かれていました。

いくら自分が正しいと思えた場合であっても、

それを理由に相手を非難しないようにしましょう。

ここは多くの人が陥る対人関係の罠です。

人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、

すでに権力争いに踏み入れているのです。

わたしは正しい。すなわち相手は間違っている。
 
上記は、私も陥っていた罠でした。
誰かと議論や言い合いをしたり、誰かから叱責を受けた際に、
人は誰しも「自分は正しい」という部分に固執してしまいます。
 
しかし「この部分は自分が正しい」と主張した瞬間、
その言葉は、相手には「あなたが間違っている」というメッセージとして伝わります。
そうなってくると、もはや「事実の正誤」という問題から、
「人間の優劣」の問題に置き換わるのです。
例え自分が「事実の正誤」のつもりで話したとしても、
「正しい」という話をした瞬間、相手は戦闘モードに入ります。
なぜならば、他者に劣等感を覚えると不快を感じるという相手の中の理由から。
 
ですから対人関係の中で、「正しい」を発言することはタブーです。
特に、言い合いになっていたり、叱責を受けている時のような、緊迫した場面では。
 
本質を見ましょう。
 
自分にとって、何が望ましい結果なのか。
「快」「不快」に囚われることなく。
 
「正しい」と発言することは、相手との無駄な闘争を発生させますから、
そうではなく、事態収拾に動くべきではないでしょうか。
 
どちらが「正しい」のか、そういった事実は「心」の中にしまい、
話の議題となっているトラブルや課題をどう解決するかという方向に、
建設的な話に持っていくべきです。
 
相手が謝罪を求めているのなら、
「正しくない」と思っていても、その時には謝罪をする。
自分の正当性を主張するのに、そのタイミングは不適だからです。
 
そうではなくて、事態収拾に向けて行動して、
同じようなことが起こらないように、
自分の自主性の下で予防策を考察する。
 
そうした姿勢を見て、相手はようやく自分を再度信用するようになる。
残念ながら、言葉で相手に自身の「正しさ」を伝えようとしても、火に油を注ぐだけ。
「なんだと、じゃあ私が間違っているのか?」と受け取られてしまいます。
 
「言葉」じゃなくて、「行動」で示しましょう。自分の「正しさ」は。
 
「行動」で示せるようになるということは、自分が「成長」したということです。
 
自分が「成長」したら、きっと気持ちいいですよ。
「言葉」で得られる「みみっちい快」なんかよりも、ずっと。