ジーン(Gene)−生命の本質の半分−
私は「本質」が大好きです。
「本質」を押さえれば、戦略や戦術を立てることが可能となります。
ですので「人生」を生きる上で、「本質」を理解することは非常に重要なのです。
私は、まだまだその境地に達していませんが、
「人生」や「世界」の「本質」を理解することができれば、
その人は「人生」の「現在地」と「地図」を手に入れたことになります。
「現在地」と「地図」さえあれば、「幸せ」にダイレクトに向かうことができる訳です。
これをざっくりとしたイメージで例えると、こんな感じです。
バットでボールを打ち返すときに、表面の模様は関係ありません。 大事なことは、ボールの芯を打つことです。 |
「本質」も、同様に目には見えません。
事象の表面だけ延々と眺めていても、うまく打ち返すことができない訳です。
だから「本質」を捉えようとするならば、
「思考」もしくは「直感」で、どこが「芯」なのか探ることが重要となります。
また野球と同じように、
「人生」や「世界」の「本質」を探るときにも、練習や素振りがとても大切です。
練習や素振りを「継続」して初めて、「芯」を感覚的につかむことができるようになります。
なお私の素振りは、日々「描く」ことです。
さて、今日のテーマに進みましょう。
今日のテーマは、生物の「本質」です。
実は私は、生物の「本質」については、一つの「解」を得ています。
それは、リチャード・ドーキンス博士の提唱した「利己的遺伝子」という理論です。
(「利己的遺伝子」のウィキペディアは、こちら)
(「利己的遺伝子」に関する私の過去ブログは、こちら)
「利己的遺伝子」論に基づけば、
生物は「遺伝子」の使い捨ての乗り物に過ぎないということになります。
この論では、
生物の主役は、私達の「自我」ではなくて、「遺伝子」であると主張するのです。
もう少し詳しく見ていきましょう。
このことは、アリやハチのような社会性を持つ昆虫を例にするとわかりやすいです。
アリやハチは、女王以外は子孫を残すことが許されません。
働き蜂や働き蜂は、自分の子孫を残すことができず、一生を女王のために尽くすのです。
当然こんなことは、人間社会ではあり得ません。
例えるなら、会社の社長が社員の女性を全て愛人にして、
社員の男性は結婚することも許されず、
公私の区別なく、会社の社長のために一生働き続ける続けるということ。
仮にそんな会社があったとしたら、社員が反乱を起こしてつぶれてしまうでしょう。
しかしアリやハチは、それに対して一切不満を持ちません。
おそらく嬉々として、女王への奉仕を一生続けるのでしょう。
なぜ、このようなことが起こるのか?
それは、生物の主役を「遺伝子」とすることで、説明がつくのです。
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「遺伝子」のキャラを頭に想像して下さい。
その「遺伝子」くんは、ある時太古の地球に誕生しました。
それは、様々な偶然が重なった奇跡的な一瞬。
「遺伝子」くんの正体は、自分を複製できる物質。
「遺伝子」くんは想いました。
自分のコピーをどんどん増やしたい!
世界を自分で満たしたい!
その望みは叶えられ、「遺伝子」くんは海中の養分を取り込みながら、
どんどん細胞分裂的に増えていったのです。
しかしある時「遺伝子」くんは、自分の体が経年劣化していくことに気づきました。
これでは、世界を自分で満たすという野望は達成できない。
そうだ一定時間経ったら「死」ぬようにしよう。
そして、その残骸を他の若い自分のエサにしよう。
「死」で自分が減ったって、死ぬよりも多く自分が増殖すればいいんだ。
「死」は、「生」よりも後に生まれました。
これで、「遺伝子」くんは常にフレッシュな体を手に入れることができたのです。
体の経年劣化の問題は解消しましたが、
「遺伝子」くん自身もDNAという物質であるため、
複製するときに時々エラーが発生します。
それが、突然変異です。
一度複製時にエラーが起きたら、以降間違ったまま複製が繰り返されます。
このようにして、無数にいる「遺伝子」くん達に個性が発生するのです。
皆同じ自分であれば競争という概念も発生しなかったのでしょうが、
「遺伝子」くん達に個性が生まれたときから、競争が発生します。
「違い」があるから、「勝ったのはこっちで負けたのがこっち」と勝敗が決まるのです。
海の中にある資源を食いつぶしてしまったとき、
「遺伝子」くんのグループの一つが、太陽光からエネルギーを得る方法を身につけました。
藻類・植物の起源です。
藻類・植物の起源となった「遺伝子」くん達は、光合成を武器に増えまくりました。
一方で、光合成のスキルを持たない「遺伝子」くん達は、
競争に敗れ隅に追いやられてしまいますが、
他者を襲って捕食することを覚える「遺伝子」くんが登場しました。
これが、動物の起源です。
彼らは獲物を求めて動く必要があるので、
より動ける「遺伝子」くん一派が競争に勝ち残り優性になっていきます。
また、植物や動物のように自分の生存戦略を自前で確立する「遺伝子」くん達がいる一方、
彼らの気づきあげた仕組に不正アクセスしてエネルギーを奪おうとする、
ウィルスや寄生虫の起源となった「遺伝子」くん達も登場するのです。
この話はもっともっと続けられるのですが、
話が長くなるので、今日の「遺伝子」くん物語はこの辺で終了します。
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さて、どんどん突然変異して様々な個性が誕生した「遺伝子」くん達ですが、
彼らの中には一貫した想いがあるのです。
それが、「自分の複製をどんどん増やしたい」という想いです。
この「遺伝子」くんの想いに注視すると、
冒頭で挙げたアリやハチの自己犠牲的な奉仕にも納得のいく説明が可能となります。
ポイントは、「自分のコピーを増やす」ということ。
私達人間の家族と、アリやハチの家族を比較してみましょう。
私達人間の親子や兄弟は、それぞれの遺伝子の2分の1が同じです。
例えば、子どもは母親と父親のそれぞれの遺伝子を2分の1ずつもらっています。
兄弟間も互いの遺伝子は、2分の1だけ共通です。
一方で、ハチやアリの働き蟻や働き蜂は、女王蜂と4分の3の遺伝子を共有しています。
ですから彼らにとって女王は、人間の家族よりも、自分と等しい関係なのです。
親子や兄弟よりも近い関係。どんなものだろうかと想像してしまいます。
という訳で、女王のために自分の一生を尽くすことは、
働き蟻や働き蜂にとって自分の遺伝子の4分の3が次代に残されることにつながるので、
彼らの中の「遺伝子」くん的には納得のいく合理的な選択となる訳です。
しかし、これはあくまで「遺伝子」くんサイドの話に過ぎません。
「遺伝子」くんサイドに都合がよくても、
私達個々の個体にとっては「そっちサイドの話なんて知らんよ」ということになるのです。
ハチやアリでしたら、「自我」がほとんどないでしょうから、
「遺伝子」くんサイドの用意した「快」という報酬系に則って行動することが
自然だと思います。
しかし人間と、哺乳類や鳥類の一部は、
進化が行きすぎて「自我」というものを持ってしまったのです。
そうしたときに、
「遺伝子」くんの「自分のコピーで世界を満たす」という想いとは別の想いが、
一つの体の中に同時に宿ります。
それが、「幸せ」になりたいという個体としての想いなのです。
「生命」の「本質」は「利己的遺伝子」論で半分説明できると、私は考えています。
それは「本能」側の論理、目的、想い。
しかし残りの半分は、私にはまだ説明できないのです。
残りの半分とは、いつの間にか「個体」の中に宿った「自我」という存在。
その「自我」は、どこから来てどこに行くのか?
その「自我」は何のために、この「世界」に誕生したのか?
私は、そこのところを不思議に想い、このブログを通じて日々考察しているのです。