灯台の光

「何のために生きるのか」
 
皆さんは、自分なりの答えをお持ちですか?
 
改めて考えると、
私はこれを探すために、
4年半ブログを続けているのかもしれません。
 
「何のために生きるのか」
 
ブログを始める前にも、
私はこれを持っていましたが、
それは何度か、周囲に叩きつぶされ、破壊されました。
 
最初に破壊されたのは、中学2年生の時。
 
「先生の言うことが正しい」「先生の言うことを守ろう」
そんな価値観を持っていた私は、
学級委員長に任命されました。
しかしクラスの生徒は、先生をバカにしたり、カンニングをしたり、
自分から観たら「悪い」ことをやっていたのです。
 
私だけ、先生の言うことを守ります。
今でも思い返すのが、毎日の教室の掃除の時間です。
私以外のクラスメートがダベって掃除をさサボる中、
私だけが教室の床を、一人で雑巾がけしていました。
 
「僕の生き方は、間違っているの?」
「僕は、変わっているの?」
 
私の「価値観」はグラつき、色あせました。
 
また、会社に入ってからも私の「価値観」は叩きつぶされました。
 
私は最初に入った会社でいじめにあったのですが、
その発端は、未熟な自分でした。
人とのコミュニケーションができない私は、
異性とのつながりの経験も乏しく、
そんな私がある日、一つ下の後輩にアンバランスな恋心を抱きました。
 
しかしその後輩は、職場の男性の先輩と不倫関係でした。
それを知った私は、その先輩に強い態度で当たってしまいました。
そういった私の身勝手な行動が招いた結果が、その先輩からのイジメです。
私は職場で干され、最終的に会社を辞めました。
 
先輩に強く当たった動機の半分以上は、私の嫉妬です。
ですから、この時のイジメは、自分が招いたもの。
しかし、当時その先輩の奥さんは妊娠中で、
そんな奥さんの心細いときに他の女性に手を出しているという事実や、
そういう遊び的な気持ちでその後輩に手を出していることを、
受け入れられなかったということもありました。
 
その時に周囲の人々から私を助けるためにかけて頂いた言葉は、
「不倫は、みんなやっている」「大したことではない」ということでした。
 
この一連の体験から、私の「価値観」は叩きつぶされました。
「何を信じて生きていけばよいのか?」
「不倫のような欲望のために生きていくことは、誤りではないのか?」
 
「何のために生きるのか?」
これが、本当にわからなくなりました。
 
ただ、わかったことが一つ。
「自分は自分、自分の主張を他人に押しつけてはいけない」ということです。
「自分は自分、他人は他人」という区別がつきました。
 
生きる道しるべを失った私は、ブログを立上げ、
周囲に破壊されない普遍的な「生きる意味」を探し始めた次第です。
「これだ」というような自分の腑に落ちる「灯台の光」を真剣に探し続けました。
 
今の「生きる意味」は、以下の3つです。
「真のつながりを得る」「愛を発信する」「成長する」
 
きっとこれなら、周囲に破壊されることもないでしょう。
 
あなたは、進むべき「灯台の光」を見つけていますか?
 
灯台の光」がなく彷徨っている状態は、
私にとって、生きている「実感」や「喜び」のない状態でした。
ただただ生きるために生きる。
 
これは、昔のソ連強制収容所での刑罰に似ています。
囚人は、看守に命令されるまま、穴を掘らされ、そしてその穴を埋め戻させられます。
その目的のない自分の「人生」に、囚人達は深く深く絶望していくのです。
 
「生きる」以上、自分の進むべき「灯台の光」を見つけましょう。
その「灯台の光」が第三者に破壊されないように、
決して誰かの考えを鵜呑みにせず、
ちゃんと自分で考え自分の腑に落ちる「灯台の光」を見つけるのです。