「我慢」せずに「砂粒」になる

「我慢」という言葉。
もちろん、100%の人がご存じでしょうが、
その成り立ちを知る人となると、意外に少ないと思います。
 
実は「我慢」は、仏教用語です。
語源由来辞典によりますと、

仏教で「慢」は、思い上がりの心をいい、
その心理状態を七つに分けたものが「七慢」である。
その中の「我慢」は、自分に執着することから起こる慢心を意味し、
「高慢」「驕り」「自惚れ」などと同義語であった。
そこから意味が転じ、
我慢は「我を張る」「強情」などの意味で使われるようになった。
さらに、強情な態度は人に弱みを見せまいと耐え忍ぶ姿に見えるため、
近世後期頃から、現在使われている我慢の意味となった。

というような由来となっています。
 
この由来からすると、
「我慢」とは別に美徳でもなんでもないんですね。
逆に仏教では、避けるべき煩悩の一つに数えられています。
「高慢」な自分がそこにいるから、「我慢」をしてしまうのです。
 
確かに「我慢」をしているときというのは、
「人に自分の弱みを見せまい」と頑張っています。
それは「我」に執着しすぎて、
他者を軽視している姿勢の現れです。
 
「我慢」の「我」についても、観ていきましょう。
仏教において「我」は、
「自分は間違っていない」「自分こそが苦労したんだ」と、
自分の考えが常識だと思い込んでしまう心のことです。
「我」に囚われると、周りの声も素直に聴くことができなくなります。
これは、年を重ねるごとに固くなってくる厄介なものです。
「我」は、自分を守るために生じますから。
 
すなわち「我慢」とは、外部の理不尽な環境から自分を守るために、
「自分の世界」に囚われたり(「我」)、
自分を上げて他者を見下したり(「慢」)、
そういった「心」の状態を指す訳です。
 
このように考えると、「我慢」している状態は、
自分にも周囲にも「毒」になってしまうんじゃないかなぁと感じます。
 
大体、人間関係に悩んでいる人は、皆「我慢」をしているんじゃないでしょうか?
「我慢」をしていれば、自分にとても大きなストレスが発生します。
そして「我」と「慢」によって、周囲にもストレスを生じさせてしまうのです。
 
そんな状態にいたら、
「人生」におてい大切な何かを失ってしまうなぁという気がします。
 
「我慢」をしない生き方を、模索するべきです。
それには、昨日のブログ「自分像を破壊する」に描いたとおり、
「自分は、こういった人間なんだ」っていう自分へのセルフイメージを
破壊する必要があると考えます。
これが、「我」の状態からの脱却です。
そして、「高慢」「慢心」にならないように、
自分の存在を「砂粒」くらいに感じるのがよいのかなぁと感じています。
 
そうすれば「慢」からも解放され、
「我慢」しないで「ありのまま」を生きることができるのかなぁと想うのです。
自分が「砂粒」であれば、
日常のどんなことにだって「感謝」できるし、
日常のどんな理不尽なことも受け入れられます。
自分を「砂粒」と捉えれば、
自分は「自然」や「世界」の中の一部にもなれるのです。
 
今日も、この「砂粒」のような私が、自分の考えを文章にすることができました。
とても、有り難いことです。