「自分像」を破壊する

例えば、私を無視する人がいたとします。
 
今までの私は、
「なんて心ない人だ。
 ろくに私のことなんか観ていないくせに、
 無視するのが当然みたいな扱いを簡単にするなよ!」
と反発していた訳です。
そう考えながらも、その人から無視をされる度に、
ストレスが溜まっていきます。
解消されることのない評価の乖離が、永続的に私の「心」を消耗させるのです。
 
この状態を解消するためには、相手が無視を止めてくれるまで待つしかありません。
無視を止めてくれたときにようやく、
相手の私への評価と自分自身の評価の乖離が解消する訳です。
 
しかし、こんな他人任せの生き方をしていては、
いつまで経っても「幸せ」になれそうもありません。
そもそも相手が無視をいつか止めてくれる保証なんて、どこにもないのですから。
 
今ここに、2つの像があります。
一つは、自分が信じる「自分像A」。
もう一つは、他者が自分のことを評価する「自分像B」。
 
私の場合、自分への影響は常に「自分像A」>「自分像B」でした。
だから他者から無視されたときには、
「いや自分は無視されるような人間じゃない」と反発してきました。
 
また、最初に入った職場にて自分の身から出た錆でいじめにあったときにも、
「いや、自分はいじめられるような無価値な人間じゃないんだ」という歯ぎしりが、
自分自身の「心」を焼き、苦しめていたようです。
相手の「心」ではなく、自分の「心」が、私を苦しめていました。
 
結局、自分の信じる「自分像A」と相手が自分を評する「自分像B」の乖離が、
人の「苦しみ」の重大なファクターなのです。
 
私は今まで自分の身を護るため、強固な「自分像A」を構築してきました。
例えば、「自分は優しい人なんだ」とか、
「自分は決して人に理不尽なことはしないんだ」とか、
「自分は頭がいいんだ」とか。
 
また一方で強固な「自分像A」は、
人から褒められても、それをそのまま受け入れられないという弊害を引き起こしました。
 
「自分像A」は、
「どうせ自分は、人から好かれないんだ」とか、
「どうせ自分は、無能な人間なんだ」というような、
自分を卑下するネガティブなイメージも同時に持っていたのです。
 
このような「考察」を進めていくと、
ああ「自分像A」は、破壊した方がいいなという結論に辿りつきました。
 
他者が創りあげる「自分像B」は、私の力で容易に変えることができない訳です。
しかし「自分像A」と「自分像B」の乖離でいつも苦しむというのなら、
いっそのこと「自分像A」を破壊してしまいましょう。
 
かつてロシアでレーニン像が破壊されたように、
それまでの自分を苦しめていた象徴を破壊するのです。
 
「自分像A」を破壊して、新たに「自分像B」を自分の「心」の中に建設しましょう。
 
他者が評する「自分像B」を自分の肖像とするのは、確かにとても痛いことです。
例えばそれは、
私を無視する人の評価をそのまま自分の評価として受け入れることを意味します。
「私は、無視されて当然なほどの価値のない人間なんだ」と。
 
そんな「闇」の評価を全て「自分像B」として受け入れて、
自分はどこまでも醜くてちっぽけな存在だと感じるのです。
一旦、自分を砂粒ほどの価値しかない存在に還元しましょう。
 
でもその「闇」の評価は、実は正当な評価でもあるのです。
自分の観たくない側面を、適確に表してくれています。
 
そうして「闇」を受け入れたとき初めて、
他者からの「光」の評価を受け入れることが可能となる訳です。
「闇」に凍えた分、「光」の暖かさへの「感謝」も自然に湧いてくるようになります。
 
このようにして、自分を苦しめることのない等身大の「自分像」が完成する訳です。
 
現実離れしていた「自分像A」。
ちゃんと現実に基づいて創られた「自分像B」。
 
「自分像A」にすがりついたままでは、人は「成長」できません。
一旦ありのままの「自分像B」を肖像として創造するのです。
そして、そこから本当の「成長」が始まると、私は考えます。
痛い自分が見える分、「成長」の意欲だって俄然湧いてくるのです。