「芝」は求める。生きるために。

ゴルフ場の「芝」は、
ボールを打ってもはがれないように、
しっかりと地中深く根を張っています。
 
よほどたくさん水をやって、しっかりと根まで育てているのでしょうか?
 
実は、水を潤沢に与えても根は育ちません。
 
逆に、水を限界まで与えないことで、
「芝」が緊急事態と捉え、水分をもっと吸収するために、根を地中深くまで広げていくのです。
 
私は、ここに「生命」の意志のようなものを感じます。
「絶対に生きるぞ!」という強い意志を。
 
植物に「水」が絶対に必要なように、
人間にも生きるために必要なものがたくさんあります。
 
「愛」も、そうでしょう。
 
幼少時から潤沢に「愛」を与えてもらった人も、美しく成長していくでしょうが、
もし「愛」が不足している「人生」であっても、
不足しているからこそ発達する何かがあるはずだと、私は考えます。
 
「人間」だって、「芝」と同様に一生懸命生きているのです。
だから、「愛」が足りない「人生」だからって、
私やあなたに宿る「命」は、決して「生きる」努力を放棄しません。
 
先程の「芝」の例で考えるのなら、
「愛」が不足している場合、「愛」を得る力が強化されるはずです。
 
実際に孤児院の子ども達は、両親と過ごす子ども達に比べて、
他者に対してとても強く愛嬌を振りまくということを何かの本で読みました。
やはり「人間」にとって「愛」は、
「芝」にとっての「水」のように必要不可欠なのでしょう。
 
実際に「チャウシェスクの落とし子」という悲しい実例があります。
独裁者チャウシェスクの人口増加政策として、
スープのみを与えられて工場の製品のように育てられた孤児達は、
外部の刺激に無反応になり、喜怒哀楽という「感情」が全く欠落しまったのです。
(詳しくは、過去ブログ「理解者」をお読み下さい)
その子ども達には、両親や親代わりとなる大人との接触が全くありませんでした。
「スープ」のみが、彼らに与えられました。
 
やはり、「人間」には「愛」が必要なのです。
 
冒頭の話に戻りますが、じゃあ「愛」の不足した人間が劣るのかというと、
私はそうではないと考えます。
 
「お金」の不足する人が、自らの「節制」ができるようになったり、
本当の「お金」の使いどころを理解したり、するように、
「愛」が不足する人にも、見えてくるものがあるはずです。
 
具体的には、本当の「愛」への目利きができるようになると私は考えます。
 
そりゃあ最初のうちは、「愛」への飢えから、
偽物の「愛」に飛びついて痛い目にあう人もいるでしょう。
 
しかしそういった苦しい経験も乗り越えて、
結果的には「愛」が潤沢にある人よりも、
本物の「愛」を見極める力がつくと私は考えます。
併せて、本物の「愛」を自ら実践しようとする強い意志も備わるのです。
 
「不足」しているからこそ、「心」からそれを求めるし、その「本質」を理解できる。
「不足」は、悪いことばかりではありません。
 
「雑草」や野生の動物を見ればわかることですが、
「生命」にとっては「不足」している方が、当たり前の環境です。
 
現代人を悩ませる肥満や糖尿病は、
「生命」にとって想定外の「潤沢」になりすぎた食料環境が原因となっています。
この世の中、「過ぎたるは及ばざるがごとし」という面もあるのです。
 
逆に「不足」しているからこそ、得られる何かや、成長する何かが、あるはず。
 
「不足」こそが、「生命」の主流であり「王道」なのです。