本当の「座右の銘」を、持っていますか?
アインシュタインの言葉。
「人の価値とはその人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」
こういうブログをやっているので、
過去に様々な金言を紹介してきましたが、
上記アインシュタインの言葉は、
その中でも私にとって一番の言葉です。
この言葉は、私の生きる指針になっています。
「座右の銘」の座右とは、
皇帝などが、自分の右手側の席に、信頼できる補佐役を座らせたことから、
重要な席を指す言葉なのだそうです。
そして銘とは、もともと古代中国の文体の一種であり、
古人の大部分が銘を器物の上に刻みました。
このように、「心」に刻むべき信頼できる言葉を「座右の銘」と呼ぶようです。
ウィキペディアでは、
座右の銘(ざゆうのめい)とは、
行動の戒めとするために日常的に心に留めておくための言葉。
『文選』に収められた後漢の崔瑗(崔子玉)による文章「座右銘」に由来する。
と書かれています。
私の「座右の銘」、
「人の価値とはその人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」は、
十分に行動の戒めとなる言葉です。
得たことにこだわるな!
得るものに意味はない!
問題は、どれだけ与えたか?
私はこの世界に生まれて、どれだけ与えたのか?
そして、どのように与えたか?
私の「人生」は、その与え方によって語られる。
その与え方によって、私の「人生」の価値が決まる。
私の右に座っている補佐役の「座右の銘」くんは、そう私に語るのです。
「得たもの」には、もちろんお金も含まれると思いますが、
本質的にはそれよりも、他者から自分に向けられる気持ちを指すように思います。
人からの評価、人からの感謝、人からの好意、人からの尊敬。
私は、これらが大好きです。
そして、これらを得られないと落ち込んでしまいます。
「いや、殿!そこに本質はありませんぞ!」
「座右の銘」くんは、忠言してくれる訳です。
問題は、自分がこの「世界」に生まれて何を与えたか?
物質的なもの、気持ち的なもの。
どれだけ、誰かを励ましただろう?
どれだけ、誰かをいたわっただろう?
どれだけ、誰かを心配しただろう?
どれだけ、誰かを感動させただろう?
どれだけ、誰かを喜ばせただろう?
どれだけ、誰かを楽しませただろう?
どれだけ、誰かを安心させただろう?
「人の価値とはその人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」
これを「座右の銘」にしたのならば、自分がすべき仕事も決まってくる訳です。
少なくとも、給料(得たもの)では、仕事を決めません。
そうではなく、
「自分がどれだけ与えることができるのか?」で、仕事が決まってくるのです。
そして「幸せ」も、「得たもの」でなく「与えたもの」で決まってくると私は考えます。
確かに、お金がたくさんあったら「幸せ」、
多くの人から注目されたら「幸せ」でしょう。
しかし「得たもの」は同時に「失うもの」でもあります。
「幸せ」な気持ちと併せて発生する「恐怖」。
失ったらどうしよう?
もっともっとお金が欲しい!
もっともっと私を注目して!
それって本当に「幸せ」なのかな?
「与えたもの」は、じんわりと人を「幸せ」にします。
ああ、あの人が元気になってよかった。
ああ、あの人が笑顔になってくれた。
ああ、あの人があんなに楽しそうにしている。
そう想うと、何か温かいものが「心」に満たされることを感じます。
そこに「失う恐怖」は、ないです。
もし「ああ、あの人が不機嫌になった。また笑顔になってもらわなきゃ!」って、
「心」が焦るようなら、それは「依存」だと考えます。
「依存」は、相手から「得る」ことを目的に、際限なく「与え」続ける行為です。
本当に「与える」だけなら、恐怖とは無縁だと、私は考えます。
私はこれだけ与えてきたんだと、そしてこれからも与え続けるんだと、
そこに「価値」を見出せるのなら、そこに真っ直ぐな「幸せ」が現れるのです。
あなたは、本当の「座右の銘」を持っていますか?
自分の「人生」を導いてくれる、補佐役の言葉を持っていますか?
私の右に控えし参謀は、かのアインシュタインです。
人類史上、知力最高の人。
これは、頼りになります。