「遺伝子」のプログラムの隙間に

Kindle電子書籍で、
コンラート・ローレンツ博士の著書「ソロモンの指輪(動物行動学入門)」を
読んでいます。
彼は、1973年にノーベル生理学・医学賞を受賞したオーストリアの研究者です。
私達になじみの深い話で言えば、「刷り込み現象」の発見があります。
鳥の雛が卵から生まれて初めて見た動くものを、親と思い込むあの現象です。
 
博士は、近代動物行動学を確立した人物の一人として知られています。
ウィキペディアは、こちら
博士は動物を深く愛したからこそ、様々な発見を行うことができました。
「刷り込み現象」の発見も、
家族同様に接していたハイイロガンの雛に、
ご自身が母親と間違われた体験に端を発したものです。
「ソロモンの指輪(動物行動学入門)」は、
そんな彼の動物への愛情が込められた一冊であり、
私と同様、動物好きの方にオススメします。
 
さて、雛鳥の「刷り込み現象」からもわかる通り、
動物の行動は遺伝子によってプログラムされています。
 
じゃあ動物には「自由意思」というものがないのかと言うと、
どうもそういう訳ではないようです。
「ソロモンの指輪(動物行動学入門)」では、
夫婦で育児をする珍しい魚としてカワスズメ科のジュエルフィッシュの生態が語られています。
 
この魚の子どもに対する愛情は見事です。
以下、「ソロモンの指輪(動物行動学)」からの引用します。

この珍しい魚の育児は、こうした愛情の問題よりはるかに興味深く、
みていてもはるかに感動的である。
巣の中に卵あるいはまだごく小さい小魚がはいっている間、
彼らは巣に誠実に「奉仕」する。
トゲウオがやるように、水をあおってたえず新鮮な水を巣に送りこむ。
一定の時間ごとに、夫婦は軍隊のような正確さで交代する。
やがて小魚たちが泳げるようになると、親は注意深く彼らを引き連れて泳ぎ、
小魚の群れはいとも従順に親のあとからついてゆく。
すべて一度みたら忘れられぬ、絵のような光景である。
だがいちばんかわいらしいのは、
もう泳げるようになった小魚たちが夕方になって寝かしつけられるときだ。
小魚たちは生後数週に達するまで、毎晩日暮れどきになると、
幼い時代をすごした巣穴へ連れもどされる。
母親は巣の上にがんばっていて、
きちんとしぐさのきまった動きをして小魚たちをひきよせる。
(中略)
この信号めがけて小魚たちが泳ぎよってきて、
呼び寄せている母親の足もとにある巣穴の中へみんな集まってしまう。
そのひまに父親は、水槽じゅうをせわしく泳ぎまわり、おくれた子はいかいかとさがす。
もしいたら、もう呼び寄せるようなまだるっこいことはせず、
さっさとそいつを口の中に吸いこんで、巣まで運び、巣穴の中へ吐き出してやる。

 
なんとも愛らしい風景がイメージされませんか?
しかしこの母親の行動も父親の行動も、
実は遺伝子にプログラムされた行動に過ぎない訳です。
なんだか寂しい感じがしますね。
 
しかし、博士の愛情ある視線は、
「それだけではないのではないか?」と呼べるような行動を、
この魚達の営みの中に見つけるのです。
 
それは、この魚の父親の苦悩から始まります。
日暮れどきになると、毎日父親は巣に戻りおくれた小魚探しを始めるのですが、
目の前にミミズの切れはしを見つけるのです。
父親は自分の仕事を忘れて、ミミズを口にほおばってしまいます。
するとそこに、一匹の迷い子が!
電気でもかけられたように彼はとびあがって、すぐその子に追いつき、
もうミミズでいっぱいになっている口の中へさらに小魚を吸いこんだのです。
 
さて、ここで彼の口の中には、2種類のものが!
一方は胃袋に入れるもの。
もう一方は巣穴へ運ぶべきもの。
 
さて、遺伝子の2つの異なるプログラムの狭間で、
この父親はどんな判断をしたのか?
 
非常に興味深いことが起こります。
またまた、「ソロモンの指輪(動物行動学入門)」から引用しますと・・・

ところが現実に起こったのは、はるかにすばらしいことであった!
魚は口をほおばらせ、硬直したようにじっとしていた。
かむこともせずに・・・。
私は魚が思案するのをみた!
考えてもみたまえ、魚が真に心の葛藤におちいるとは。
(中略)
何秒もの間、宝石魚(ジュエルフィッシュ)の父親は
壁につきあたったようにつっ立っていた。
だが彼の中でどんなことがおこっているのか、ありありとみえるようであった。
ついに彼は、この心の葛藤を彼なりの方法で解決した。
それはまったく尊敬の念を禁じえないものであった。
彼は口の中のものをぜんぶ吐きだした。
ミミズは水底に沈んでいった。
小さな宝石魚の子も、前に述べたようなぐあいに重くなって、やはり水底に沈んでいった。
そこで宝石魚の父親は、確固とし態度でミミズのほうへむきなおり、
あわてる様子もなくそれを食べはじめた。
だが、片目はたえず「おとなしく」水底に横たわっている小魚のほうに注がれていた。
いよいよミミズが食べ終わると、彼はこの子を口へ吸いこみ、無事わが家へ、
母親のところへ送りとどけたのであった。

 
とても素晴らしい光景に思えませんか?
父親は、餌と一緒に小魚を食べてしまわなかった。
そしてもう一つ素晴らしいのが、そこに葛藤があったということ。
異なる2つのプログラムが、相反する命令をこの父親に発信している間、
彼は硬直したようにじっとしています。
コンピュータなら、エラーを出して処理をストップしているところでしょうが、
この父親は、葛藤の末、プログラム外の行動を採ったように、私には見えるのです。
 
この葛藤やプログラム外の行動が、
私には「自由意思」や「心」の発露のように感じます。
 
過去にブログで、「ダンゴムシに心はあるのか?」という書籍を紹介しました。
(過去ブログは、こちら
ここでも、ダンゴムシのプログラム外の勇気ある行動を紹介しています。
 
私たち動物や生命は、遺伝子のプログラムで動く乗り物に過ぎない訳ですが、
しかし、この遺伝子のプログラムがカオスなほど複雑になった時、
プログラムとプログラムの狭間を埋めるため、
「心」や「魂」というものが生じたのではないでしょうか。
 
私はこのように、「心」や「魂」の出自を予想しています。
「心」や「魂」は、プログラムのエラーもしくは不完全さによって、もたらされたと。
 
例えば、私は仕事でエクセルをよく使います。
エクセルで、A1という場所にあるセルに、「=A1」という式を入れてやると、
「自己参照」というエラーが表示されるのです。
コンピュータの立場で考えてみると、
「A1のセルの値を見ろ」と言われてそこを見に行くと、
そこには「A1のセルの値を見ろ」と書かれているので、
更にA1のセルの値を見に行くと、そこには更に・・・という具合に
無限回廊に陥ってしまいます。
コンピュータの場合は、そういう場合は計算不能として、エラーを表示する訳です。
 
しかし、生命にエラー表示という機能はありません。
ですが生命は、この禁断の「自己参照」を行っているのです。
 
例えば、私。
私は、私の正体が何かを一生懸命考えています。
しかし、私が考える私は、私の正体が何かを一生懸命考えている私であるのです。
そして、その私が考えている私も、私のことを考えている・・・という無限回廊
結局私が、私の正体を一生懸命考えるということは、
先ほどのエクセルの「自己参照」と同じ構図ではありませんか?
 
本来プログラムは、自分以外の他者からの入力を処理するものです。
その限りにおいては、プログラムに矛盾が発生しません。
「Bさんがこうする→私はこうしよう」
しかし、「私がこうする→私はこうしよう」に矛盾があることがわかりますか?
結局その式では、私の行動を決定できないのです。
 
皆さんも、自分という観念を持っていらっしゃれば、
それは既に「自己参照」を起こしてしまっています。
 
パソコンではエラーが出て実行できないこの処理を、
私たちは普通に実行しています。
物質世界のプログラムという論理式を超越して、
私自身の行動がどこかから決まってしまうのです。
 
先ほどのエクセルの「自己参照」では、
コンピュータは答えを出せません。
スーパーコンピュータを何千台と集めたって、答えは出せないのです。
 
誰か「自由意思」を持った人間が、適当な答えを代入してあげない限りは。
 
という訳で、
人間の「心」「魂」「自由意思」とは、
そのような物質世界の法則から外れた存在であると私は考えます。
 
今回は、とても粗削りな「表現」で心苦しいです。
 
私はこのブログで、この「世界」の「深淵」を「表現」したいと願っています。
今回の記事は、私が言い表したいこの「世界」の「本質」に迫った内容です。
今後も「表現」を洗練して、うまく「深淵」を描き出したいと想いますので、
どうぞ、よろしくお願いします。