「心」のエネルギー政策

私はここ1ヶ月の仕事で、
自身のエネルギーを最大限に出力できる状態から、
自身のエネルギーが出力不能になる状態まで、
両極端の状態を体験しました。
この落差からの気づきは、貴重でした。
 
まず双方の状態を比較すると、
エネルギー最大限の状態の方が、
仕事量が多いにも関わらず疲労が少ない一方、
エネルギー出力ゼロの方が、
仕事量が少ないのに、酷い疲労に襲われました。
 
また「幸せ」度についても、
当然のことかもしれませんが、
エネルギー最大限の時期は「幸せ」で、
エネルギーゼロの時期は著しく「不幸」でした。
 
人間の「心」にとっては、
エネルギーを温存するよりも、
エネルギーをバリバリ外に出力する方が、快適な状態なのだと思います。
 
エネルギー出力を願う我々人間の「心」は「発電所」のようなものです。
この世界に現れた私達の「魂」は、
様々な「体験」を糧に、この「世界」に対してエネルギー出力を行います。
そしてこのエネルギー出力は、
「魂」にとっての存在意義の一つなのではないかと考える次第です。
 
発電所」にいくつかのタイプがあるように、
私達の「魂」のエネルギー変換の方法にも、いくつかのタイプがあると思います。
 
最もクリーンなエネルギー出力のタイプは、
水力や地熱や風力のような、自然にあるものをそのまま使った発電所です。
私達のエネルギーも、変な「感情」を使わずに、
生きているその場のプレーンな状態からエネルギーを生み出すことができたら、
それは、夢のエネルギーになると思います。
 
しかし現実世界の「発電所」がクリーンエネルギーのみで統一できていないように、
我々人間も、プレーンな場だけからエネルギーを出力することは困難です。
どうしても「感情」を使わざるを得ない。
 
冒頭で述べたように、
3月の前半、私はエネルギー出力に満ちていました。
そのエネルギーの原料は「感情」でした。
 
その「感情」は、職場への「使命感」だったと感じます。
私の中のイメージは、「火力発電所」です。
原料がある限り、エネルギーを出力することができます。
 
しかし、この「使命感」が原料として使えなくなったのです。
プレーンな場を使う「水力発電所」と違い、
「火力発電所」は原料の供給がストップしてしまうと、
単なる箱になってしまいます。
3月の後半は、まさにその状態でした。
 
「じゃあ、原子力に切り替えようか」と、一瞬そんな考えが「心」をよぎりました。
つまり「憎しみ」をエネルギーの原料にしようとしたのです。
 
「いやいや、それじゃどっかで破綻するよ」と、一方で別の考えがよぎります。
「憎しみ」はうまく扱わないと、ちょっとしたことで暴発する危険な原料です。
「憎しみ」をパンパンに満たせば、
確かに簡単に相当量のエネルギーを得ることが可能だと思います。
しかし、一度メルトダウンを起こせば、自他共に深刻な被害が想定される訳です。
 
すると、やはりここは、クリーンエネルギーの登場なのかなと、
このブログを描いていて感じます。
「感情」からエネルギーを生産するのでなく、
この「世界」からエネルギーを頂くのです。
 
水力、地熱、風力、太陽光と、自然界は様々なエネルギーで満ちています。
私達の「心」がエネルギーを得る手段も、様々な方法が模索されている訳です。
 
瞑想、座禅、ヨガ、祈り、森林浴、運動等と、多岐にわたります。
しかしこれらは、現代人が使いこなすには少々物足りないと感じてしまうのが実体です。
我々の日々の仕事は、相当量のエネルギーを消費しますから。
 
であるならば、急に全てをクリーンエネルギーに頼るのは難しい。
「火力発電所」や、時には「原子力発電所」の力を借りながらも、
長期的には自分にあったクリーンエネルギー発電を研究開発することが現実的です。
 
エネルギーをどこで発電するのか?という短期的視点でなく、
必要なエネルギー源を調達するために、どのようなエネルギー政策を採っていくのか?
最初から理想論で、全てをクリーンエネルギーで賄おうとしても、絶対に停電が起きます。
 
エネルギーミックスの観点が重要です。
私も当初は、「憎しみ」をエネルギー源に使うべきかもしれません。
しかし同時に、「原子力」が事故を起こす前に、
別の代替エネルギーの研究開発が最大ミッションとなるでしょう。
 
私は、瞑想を既に習得しています。
今度、鎌倉の寺に座禅を習いに行こうと計画している次第です。
 
私の「心」のエネルギー政策は、今日から始まります。
 
かつてのオイルショックで日本社会が省エネの重要性に気づいたように、
エネルギーの緊急停止を体験した今、
私は、「心」のエネルギー政策の重要性を深く理解したのです。