「戦争」を求めるのは愚かなこと 「平和」を信じることも愚かなこと

前回の記事で、
私は「善悪」の基準として、「功利主義」を支持すると書きました。
 
「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」
という考え方です。
つまりシンプルな話で、一人の人が喜ぶことよりも五人の人が喜ぶことが望ましいし、
五人の人が苦しむ状況と一人の人が苦しむ状況のどちらかしか選択できないのなら、
一人の人が苦しみ状況を選ぶことが望ましいという考え方になります。
 
このシンプルな考え方以外に、
「善悪」の基準を作り上げてしまうことは、とても危険な行為です。
そのことは、自爆テロを繰り返すISISの活動を見れば理解できます。
ISISは独自の「善悪」を作り上げてしまい、暴走しているのです。
 
さて「功利主義」の考え方に基づけば、
当然「戦争」は避けるべき最も愚かな行為となります。
どれだけの幸福が失われるのか?という話です。
 
しかし「生命」の歴史は、同種間の「闘争」抜きには語れません。
「進化」とは、同種内で優れた個体が他の個体を滅ぼす行為です。
首の短いキリンが何故いないのかと言うと、
長い歴史の中で、首の長いキリンに滅ぼされたからに他なりません。
 
「進化」が「生命」の「本質」であるならば、
同種内の「闘争」もまた「生命」の「本質」なのです。
 
じゃあ、スペイン人がアメリカ大陸発見時代に行った現地住民の大虐殺や、
ナチスユダヤ人を撲滅しようとしたこと、
中国共産党少数民族民族浄化しようとしていることを、
「進化」として肯定するのか?と言われれば、もちろん「否!」と答えます。
 
人類も、もちろんそれに気づいているのです。
だから人類は「遺伝子」にプログラムされた「本能」を乗り越えて、
「善悪」という概念を創りあげました。
 
しかしこの「善悪」という概念は、まだまだ生まれたばかりの不安定な状態。
「闘争」の被害を減らそうと言う狙いとは、真逆の効果を表すこともしばしばあります。
宗教戦争が、そのよい例でしょう。
人々が「善」と信じた行為が、より人々の「闘争」を煽り、
結果甚大な「不幸」が生まれてしまいます。
 
ですから基本的に、「平和」=「善」です。
しかし、目的と手段を取り違えてはいけません。
「平和」を維持することと、「平和」を信じることは、全く異なるのです。
 
社会には「平和」を信じることを、「善」と捉えている人が一定数存在します。
それは「善」どころか「悪」である、と私は考えるのです。
 
その人達は、「生命」の「本質」が同種内の「闘争」であることを忘れています。
「いいや!違う!」と言ったって、事実そうなのです。
「平和」を信じる人達は、私の実家の庭のスズメがエサ台で争うのを止めてみてください。
そんなことは、できないはずです。
 
私達の現在は、同種内の「闘争」の上に成り立っています。
 
しかし私も「平和」を愛する一人です。
是非、未来の子供達のためにも「平和」を維持させる義務があります。
 
「平和」を維持するためには、多少の「闘争」は覚悟することです。
「闘争」は、癌細胞のように私達の内にある宿命。
ならばその「闘争」の芽を、まだ小さい内に摘む必要があります。
 
国家間の「外交」は非常に重要です。
「闘争」の芽が小さい内に摘むことが、「外交」の大きな役割の一つだと考えます。
また、同様の理由で「軍隊」などの抑止力も重要です。
私達の体の中には、癌細胞を攻撃するキラーT細胞という抑止力があります。
彼らは、癌細胞の発生時点で癌細胞を攻撃して破壊してくれるのです。
(キラーT細胞のウィキペディアは、こちら
「軍隊」も同じ理由で持つ必要があると、私は考えます。
 
「平和」を信じる人達は、自分達は健康だと信じて健康診断を受けない人達です。
癌細胞が転移して全身に広がってしまえば、それは本当に苦しいことになのに。