仏教とロックンロール

昨日のブログで少し紹介しましたが、
コンビニでも売られているベストセラー「超訳ニーチェの言葉」の続編
超訳ブッダの言葉」という本を買いました。
 
「自分」とか「世界」に興味のある私は、
これまでもいろいろな哲学の本や宗教のエッセンス本を読んでいました。
 
私は、常識が嫌いです。
自分で納得したものを重視します。
だから、「世界」と「自分」を、自分なりに解釈しようと奮闘してきました。
その分野の書籍の読書量は相当なものであると自認します。
 
そういう気質があるので、
宗教特有の「信じる者は救われる」という考え方はダメ。
「我思うゆえに我あり」「人間は考える葦である」
思考停止は生きることの放棄です。
 
それから、宗教特有の「神秘主義」も手放しには信じない。
エネルギーのこもった場所とか何とかとか。
もちろん、はなから否定するのも非科学的な態度です。
試してみて効果を実感できるかどうかで、判断判断。
 
そんな気質の私が「超訳ブッダの言葉」の本を読んでみて、
「これは買ってよかった」と思いました。
 
まず、本書の帯にはこんな言葉が書かれています。
「いまも新しいブッダの2500年前の教え。
 それは認知科学であり心理学であり、
 きわめて実践的な心のトレーニングメソッドである。」
お経を唱えれば幸せになれるとか、
意味のわからない経文をひたすら書き写すと何らかの意味が生じるとか。
私から言わせると、
そういうのはブッダの後の人が付け足した伝統という名の「ナンセンス」。
仏教(もしくはブッダの言葉)の本質はここにはありません。
問題は、ブッダが「自分」と「世界」をどのように理解したかです。
 
本書は、小難しい仏教用語は可能な限り一切使わず、
ブッダの言葉を現代語として書き記しています。
この本のお陰で、「煩悩」や「カルマ」の意味を自分なりに捉えることができました。
 
一般的な認識として、
仏教には、お経を唱えるとか特殊な練習を積まないと
ブッダの教えがわからないというイメージがあると思います。
だから仏教は、普通に生きる人々には敬遠されます。
しかし仏教の実態は、普通に生きる人々への苦しみに対する心の処方箋なのです。
自殺者が年間3万人超の日本。生きている人々も鬱に苦しむ「苦しみの国」。
 
「なぜ世界は苦しみに満ちているのか」という疑問に立ち向かい
一生をかけて答えを導き出した一人の先人ブッダの言葉は、
現代社会の人々の心にも浸透し、苦しみから抜け出す力を与えます。
 
本書によると、ブッダ自身がこんなことを言っています。
「君が私の教えを使い終わったなら、惜しむことなく捨て去るように。」
 
そう、仏教は宗教じゃないんです。
絶対の何かを崇拝するという思想ではないから。
仏教では、私もあなたもブッダも生きとし生けるもの全てが平等です。
「私をあがめろ!」なんて高圧的な存在はおりません。
仏教の解釈に従えば、
人間に罰を与えるために洪水を起こすような存在には、
慈悲の心がないということになります。
また、多く指摘されることですが、
一神教のように他の宗教を敵として攻撃することも当然にして、ない訳です。
 
また、上にも書きましたが、
私は、宗教の、「世界はこうだからね。疑うのは罪だよ。」みたいなところがダメです。
その点仏教は、ヒントはやるから「己で自分や世界を体得せよ」というスタンスです。
 
「いいねぇ。いいねぇ。」と私は思います。
このひねくれ者の私でも、仏教の教えと共に生きることができると感じました。
もちろん、伝統や常識に縛られるのは真っ平ゴメン。
お経を唱えたり写経をしたりってことはしません。
しかし、この仏教のエッセンスと共に日々を生きることには意味がありそうです。
 
昔から「世界とは何か?」「自分とは何か?」と考えてきた私には、
このブッダの言葉には、共感するところが多いのです。
はっきり言って、私の特徴的な世界観「世界は悪」にも通じるところがあります。
 
ブッダは、社会の常識や世界に反骨するロックな方とお見受けしました。
従順することをよしとするのが一神教なら、
反骨して自分で悟れ!と一人ひとりを励ますのが仏教であるように思うのです。
 
私は、この本「超訳ブッダの言葉」を読んでブッダを気に入りました。
気に入ったので、先輩ブッダが一生かけてたどり着いた答えを有り難く頂戴し、
自身の生活で試してみようと思っています。