「意味」を制する者は、「幸せ」を制する。

さて今日は、
ブログを描いているうちに見えてきた人生の本質について
少し整理をしていきたいと思います。
 
私は現在のところ
人生の本質のキーワードは「意味」だと考えています。
 
今から、どうして人生の重要キーワードが「意味」なのか説明していきます。
例えば、「人生山あり谷あり」と言いますが、
あなたの人生の中で、「苦しみ」と「喜び」はどちらの方が多いですか?
 
「喜び」の方が多い人は、少ないと思います。
「喜び」の方が多い人は、よっぽど恵まれた方。
通常は、生きていくために働かなければならず、
日常の中に占める「喜び」の時間は、そんなに多くないはずです。
 
「苦しみ」を損、「喜び」を得と捉えて人生に決算書をつけると、
多くの人の人生は赤字ばかりの破産状態になると思います。
得よりも損の方が、圧倒的に多い訳ですからね。
 
何故、そんな「苦しみ」ばかりの人生を、
我々人間は自殺をせずに生きることができるのでしょうか?
 
それは、人間が「意味」を解するからです。
以前にも描きましたが、「意味」は、
機械やプログラミング言語が持つことができない概念です。
一方、「喜び」や「苦しみ」という概念は、
プログラミング言語でも何とか取り込むことができます。
「喜び」はプラス、「苦しみ」はマイナスとして捉え、
トータルがプラスになるように条件付けを行えば、
そのプログラムは、「苦しみ」をなんとか回避しようとするでしょう。
 
しかし、「意味」という概念はプログラミング言語で取り込むことはできません。
プログラムされたとおりに動作することはできても、
画面に映し出した文字や絵の「意味」を把握することはできないのです。
例えば、コンピュータのプログラムを使ってAさんの人生を評価するとします。
プラスは少しで、「苦しみ」というマイナスばかりが積み重なるAさんの人生に、
「意味」という概念を持てないプログラミング言語は、
自殺を選んだ方が合理的であるという結論を出すかもしれません。
 
しかし、「苦しみ」の多い人生でも、多くの人間は自殺を選ばずに生きています。
何故か?
私は、ここに「意味」の働きを見るのです。
 
人間は、全てのものに「意味」をつけようとする性質を持っています。
逆に、「意味」をつけられない事象には非常に大きなストレスを感じます。
例えば、収容所の囚人に対し、地面に穴を掘らせて、その穴をまた埋めさせて、
そしてまた穴を掘らせるという拷問。
また、賽の河原で石を積んで、崩されて、また石を積むという苦役。
 
「意味」のない苦しみほど、耐え難く恐ろしいものはないのです。
 
しかし、「苦しみ」に、効果的な「意味」をつけると、
一転して「苦しみ」を自分の味方にすることも可能です。
 
 「苦しみ」+「意味」=試練、やりがい、成長
 
すなわち、「意味」があるからこそ、客観的には苦しみの多い人生であっても、
自殺をせずに人間は生きていける訳です。
 
また、人間が求めて止まない「幸せ」。
これも、以下の式で表すことができます。
 
 「喜び」+「意味」=「幸せ」
 
例えば、高額の宝くじに当選した人は大きな「喜び」を得ますが、
その「喜び」に翻弄され、
結局「幸せ」をつかむには至らなかったという話しをよく聞きますよね。
これは、「喜び」への「意味」づけが薄いからだと思います。
 
さて、ここまで考察を進めると人生を生きる本質が見えてきます。
 
「喜び」や「苦しみ」は、人間にとっては制御不能な外部事象。
例え、世界一の美女を奥さんにしても、ジェラシーにより心はかき乱され、
例え、莫大な財産を獲得したとしても、財産を盗られないか疑心暗鬼になり、
例え、強大な権力を手に入れたとしても、部下の些細な行動に始終腹を立てる。
「喜び」と「苦しみ」はコインの表と裏。
コインの表側だけ集めていたつもりが、気づくと裏側も集まっている訳です。
 
人生において制御すべきは、「喜び」「苦しみ」ではありません。
人生において制御すべきは、「意味」なのです。
 
では、「意味」をどのように制御するべきなのか?
私が考える「意味」の制御とは、「相対的意味」から「絶対的意味」へのシフトです。
 
例えば、「会社のために一生懸命働こう!」という考え方。
この「会社のために」という部分は、「相対的意味」です。
会社は外部の存在なので、
「会社のために」という「意味」は、あなたの中だけで完結しない。
どうしても「相対的」に、外部の存在である会社の影響も受けてしまいます。
もし、会社があなたを裏切ったら、または会社があなたの頑張りを軽視したら、
「会社のために」と頑張っている人は幸せに働くことができなくなる訳です。
そして、「これだけ頑張っているのに・・・」という不満が心を覆います。
そうではなくて、
「私の才能や能力を最大限発揮するために一生懸命働く」とか
「私の才能や能力を会社での経験により最大限成長させるために一生懸命働く」とか。
こういう外部に脅かされない「絶対的意味」を持つことにより、
「苦しみ」の多い人生においても「幸せ」を手に入れることができるのだと考えます。
 
思い出してみてください。
童話「幸せの青い鳥」で、
兄妹が最後に見つけたものは、「意味」ではなかったですか?
 
自殺者の多い、現代の日本社会。
「幸せの青い鳥」を探すことを諦めてしまった人が多くいらっしゃると思います。
私は、そんな人々の力になりたい。
 
今後のブログでは、
「幸せの青い鳥」を呼び寄せるにはどうしたらよいか独自に考察を深めます。
 
「幸せの青い鳥」の探し方は、学校でもマスメディアでも誰も教えてくれない。
偉い先生方の「幸せのつかみ方」みたいな書籍もたくさん出ていますが、
どれを信じていいかわからない。
 
そんな状況の中、現在進行形で悩み苦しみ生きていく私が
「幸せの青い鳥」の見つけ方を探っていきたいと思います。
 
私は、仕事ができる訳でもなく、
物事の本質を深く考察するくらいしか「才能」がなく、
独身で世間一般の幸せからも遠い位置に生きている「負け犬」です。
そういった境遇だからこそ、できる役割もあると思います。
「負け犬」の私だからこそ、
社会にうまく適合できずに苦しむ方々の気持ちを理解できるつもりです。
「強い人」は、「才能」に恵まれていない方々を蔑む発言をよくします。
それは、しかたない。
「強い人」には「強い人」なりの、
「才能」を与えられた意味と果たすべき役割があるのでしょう。
 
私に与えられた「才能」は、物事の本質を深く考察すること。
この「才能」を与えられた「意味」を十分に吟味し、
この理不尽な世界から少しでも「苦しみ」を取り去る活動を継続していきたいと考えています。