「哲学的ゾンビ」は漫才を見て笑うか?


 
あなたは子どもの頃、こんな妄想をしたことがありませんか?
 
自分には「心」があってここに存在していると認識しているけど、
他人には「心」があるなんてわからない。
もしかしたら、他人に「心」なんてなく、
ゲームのキャラクターのように機械的に反応しているだけではないか?
 
だから、自分はこの世界に一人ぼっち。
というか、この世界は自分のためだけに存在するのではないか?
自分が死んだら、この世界も消えてなくなるのではないか?
 
過去に、こんな疑問を抱いたことがあったら、
あなたには、哲学者の素養があるかもしれません。
その考え方は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に通じます。
 
他人に「心」が入っているのかどうか、実は今の科学では誰にも証明できないんです。
 
もしかしたら、あなたが毎朝挨拶を交わしている上司は、
あなたの言葉に機械的に反応しているだけのロボットかもしれない。
挨拶を返すときの笑顔も、あらかじめプログラムされた動作に過ぎないかもしれない。
 
このブログも、実はコンピュータのプログラムによって、
自動的に文章が作成され、適当なタイミングでアップされているだけかもしれない。
 
このような自分以外には「心」なんて存在しないかもしれないという考えを、
哲学的ゾンビ」と言います。
詳しくは、ウィキペディアをどうぞ。
ゾンビは生きる屍。体は動いても、もう「心」は存在しません。
 
今の科学では、この「哲学的ゾンビ」を否定することはできません。
なぜなら、「心」という存在を解明できていないからです。
 
少なくとも、自分に「心」があることだけは確実なんですけどね。
しかし、自分に存在する「心」が、他人にも存在するかどうか証明は不可能。
 
でもまぁ、他人にも「心」があることは、なんとなく直感の部分でわかりますよね。
例えば、喜怒哀楽の感情をぶつけられた時、確かに相手から「心」を感じます。
もしくは、他人に頼られたとき、他人に感謝をされたとき、「心」を感じるでしょう?
 
「心」とは何か?「命」とは何か?
科学万能の世の中ですが、一番大切なことはまだ全然解明されていなかったりします。
 
科学万能主義で、この世界を理解したつもりになっていると危険です。
今の科学では、「哲学的ゾンビ」が徘徊している世界までしか語れません。
あなたが、「今ここにいる」と感じている「それ自体」は、
とても不思議でミラクルなことなのです。