「がんばれ」という言葉

「がんばれ」という言葉。
「鬱」の人には、禁句となっています。
 
私自身は、この「がんばれ」という言葉は好きです。
苦しんでいる人を励ましたいという暖かい気持ちが込められていますから。
 
実際、私は「鬱」の方をメールで励まそうとした時期があります。
やはり、相手は「がんばれ」という言葉を嫌いました。
「がんばれ」は無責任だというのです。
 
確かに、すでに苦しんでいっぱいいっぱいの人に、
「がんばれ」と言ったって、
「今も頑張っているのに、これ以上頑張れない」と感じるのかもしれません。
 
そういった訳で、「がんばれ」という言葉を使わないようにして、
相手を元気づけるメールを送ったのですが、
「がんばれ」って言葉を使わずに、相手を励ますって難しい。
「がんばれ」って、とても便利な言葉だってことに気づきました。
 
「がんばれ」って言葉を使わないようにすると、
相手の相談事にしっかりと即した言葉を考えて書く必要があります。
「がんばれ」ってメールを書いていた時期は、ずいぶん楽していたなぁと思いました。
例えば、「無理しないで」とか「よく頑張っているね」とか「心配しています」とか、
TPOに応じていろいろな表現を使うようになります。
メールの返信に悪戦苦闘することで、
「鬱」の方を励ますには、どんな風に接すればよいのかわかってきました。
 
ところで、今の日本社会では、「鬱」は「心の病気」として、
病院へ行って「薬」で治すことになっています。
 
しかし、一向に減少しない日本の自殺者の人数を見てもらえばわかるように、
本当に「薬」が「鬱」への一番の対処法なのか、疑わしいような気もしています。
 
「鬱」とは「心」のバランスが崩れた状態。
「カウンセリング」による「心」の交流はOKだと思いますが、
「薬」による「心」への強制介入には、直感的に不安を感じるのです。
実際、常習性もあるというし、
「薬」は本当に「心」を、本来の元気ある状態に戻す働きがあるのでしょうか?
 
かと言って、専門家に「カウンセリング」をしてもらうのは結構なお金がかかります。
金銭的に生活の苦しい人は、保険のきく「薬」を処方してもらうしかありません。
 
「鬱」というカテゴライズがなかった昔は、
悩んでいる人には、周りの人が相談にのっていました。
 
今は、「鬱」とカテゴライズされた人に対して、
周りからは相談に乗りづらい雰囲気が、できてしまっているように感じます。
「鬱」は「心の病気」であり、病気は専門家が治すもので、
周りの素人が治療しようとしてはいけないというムード。
「がんばれ」と言ってはいけないというのも、そう。
何だか素人が下手なこと言うと逆効果になるというような印象を受けます。
私は、他人から何も言われないよりも、
「がんばれ」って言ってもらった方が断然救われると思うんですけどね。
 
私は、専門家や「薬」に頼らずとも、
周りの人からの「心」の交流があれば、
多くの人は「鬱」を治せるのではないかと考えています。
そもそも、「鬱」の原因は、マイナスの人間関係によってもたらされることが多い。
だから、プラスの人間関係による「心」の交流によって、「鬱」は改善するはず。
 
今の日本の「鬱」問題を本当に改善するためには、
私たち市民が周りの「苦しみ」に敏感になり、
苦しんでいる人に心の交流を図るようにすることが必要なのだと思います。
 
「がんばれ」という言葉がダメなら、どんな言葉をかければよいのか?
そういった情報を世の中にしっかりと流通させて、
社会から「鬱」という苦しみを取り除いていく。
 
「そんなことをやっている暇はない」と多くの人が思うかもしれません。
日々の生活に追われ、疲弊する毎日です。
そう思うのも仕方ないと思います。
 
だけど何だか、日本の社会は不幸のサイクルにあるように思います。
自分が生きていくだけで精一杯で、他人の「苦しみ」に関心が持てない社会。
受験競争。就職戦線。残業に続く残業。家族の生活費の不安。
 
もちろん、競争は強さを産み出しますが、何事もバランスが大事。
1日に100人が自殺している現状に、異常さを感じませんか?
「鬱」に溢れている日本の社会に、異常さを感じませんか?
 
そろそろ、私たちは私たちの幸せのために舵を切る時期だと思います。
政治に期待してたら、いつまで経っても舵なんて切れない。
私たち一人ひとりができることをやって、豊かな暖かい社会を実現していく。
 
今、日本にとって一番大切なのは、「物」ではなく「心」です。
政治を始めとして、本当にいろいろなものから「心」が失われています。
「物」はトップダウンで社会に満たすことができますが、
「心」はボトムアップで社会に満たされるものだと思うんです。
 
まずは、周りの「苦しみ」に関心を。