人生を幸せに生きるための仮説(その2)

人生の本質を捉え、生き方のパターンを端的に表現しようとすると、
生き方のパターンは2つの軸で表せるという仮説を、前回描かせて頂きました。
2軸とは、①「奪う」⇔「与える」、②「怠惰」⇔「努力」。
そして、この2軸を利用すると、人の生き方は以下の4つの事象に分類できます。
 ①「奪う」×「怠惰」
 ②「与える」×「怠惰」
 ③「奪う」×「努力」
 ④「与える」×「努力」
 
さて今日は、上記2軸のうち、「奪う」⇔「与える」の軸のお話をしたいと思います。
この軸は、厳密には3つに分割することが可能です。
すなわち、マイナス=「奪う」/ゼロ=「与えない」/プラス=「与える」。
 
「与える」の典型的な例は、「家族」を持ち「家族」のために生きることでしょう。
実際、「家族」を持つということは、
自分の資源を全て「家族」に提供することだと言えます。
ここで言う「与える」資源というのは、「お金」も「時間」も「心」も全てです。
幸せな家庭とは、両親がしっかりと「与え」ている家庭だと私は考えます。
家族を持つということは、「与える」相手を持つということであり、
人生において、やはり重要なイベントであると言えるでしょう。
 
しかし、「家族」にしっかりと奉仕していれば万事OKかというと、
そういう訳ではないと思います。
「家族」以外にも、「縁のある者(縁者)」はたくさんいます。
「家族」には優しくても、
別の場面では、「縁者」の心を傷つけてる言動をしていたら台無しです。
極端な例として、モンスターペアレントを想像してもらうとイメージしやすいかもしれません。
この場合、せっかく「家族」に「与え」てプラスになっても、
その他多くの「縁者」から「奪って」いれば、収支はマイナスになるでしょう。
 
さて、そもそも「与える」ことがなぜ幸せなのか、深掘りして考えたいと思います。
一つの事例として、「家族」に「与える」ことが幸せに繋がるというお話は既にしました。
これについては、実感として理解していただけるかなという気がします。
 
また、私の中では、心理的に生命は繋がっているという仮説があります。
要は、「同情」という現象です。
苦しんでいる「縁者」に出会ったときに、
自分もその「縁者」の立場になった気がして、苦しくなる。
そこで、その苦しんでいる「縁者」に「与える」ことで、
自分も苦しみから解放され「喜び」を得ることができる訳です。
自身の子どもが対象の場合は、心理的繋がりをとても感じやすいため、
当然「与える」ことが自己の充足となる確率は高い訳ですね。
このような「縁者」との「同一感」が、「与える」ことの「喜び」の源泉となります。
 
では、「奪う」ことや「与えない」ことによる「喜び」は、存在しないのでしょうか?
当然ありますよね。
しかし、こちら側の「喜び」は、「与える」ことの「喜び」とは一線を画します。
「与える」ことの「喜び」は、「心」や「理性」が感じる真の「喜び」。
それに対して、「奪う」ことや「与えない」ことの喜びは、
「快楽」に起因する、もしくは「苦痛」から遠ざかることに起因する「喜び」なのです。
 
私は、「個」は「DNA」の奴隷であるという
ドーキンスの「利己的遺伝子」の考え方に大きく影響を受けています。
(利己的遺伝子の過去ブログはこちら
また、仏教においても、
「DNA」のもたらす「煩悩」もしくは「本能」は排除すべきとしています。
 
この観点から考えると、
「与える」ことの「喜び」は、真に「個」が欲する「喜び」であるのに対し、
「奪う」ことや「与えない」ことの「喜び」は、DNAが仕掛けた偽の「喜び」です。
「個」同士に弱肉強食を強要するための「アメとムチ」の「アメ」な訳です。
 
もう少し深掘りします。
「与える」ことの「喜び」は真の「喜び」であるため、
「与える」体験は永続的に「喜び」の源泉となります。
これに対して「食欲」や「性欲」などの本能に基づく「喜び」は、
永続的に続くものではありません。
これは、「心」とは別の第三者によってもたらされた偽の「喜び」だからです。
「性欲」なんかは特に強力なので、心の真の欲求を無視して「奪う」ことが多々あります。
しかし、その「喜び」は一瞬です。
人によっては、結局「後悔」のみが残るという結果になる人もいるでしょう。
不倫をして、離婚の裁判を起こされ、
大切な子どもに会えなくなった父親は、この社会に五万といるのではないでしょうか。
 
ですので、「幸せ」の観点から見ると、
「奪う」⇔「与える」の軸では、「与える」に進む道が「幸せ」への道だと言えるのです。
私は、「与える」ことにこだわるとともに、極力「奪わない」よう努めています。
私は、絶対に自らすすんで人を傷つける言動はしません。
私は、昔会社で「いじめ」に遭いました。
そのお陰で上記のことを普通に実感できるのかもしれないなと感じることがあります。
一般的には、DNAに逆らって人を傷つける言動をしないことは難しいことだと思います。
シャドウの例を見れば、わかるとおりです。(シャドウについては過去ブログをどうぞ)
 
また、「個」の幸せの観点から「与える」ことが好ましいのと同様に、
「個」の集団という観点からも、「与える」ことが望ましいと私は考えています。
「個」の集団として、ここでは一つの軸を用いて話を進めましょう。
その軸とは、「種」⇔「社会」の軸です。
DNAが支配して形成する「種」。
これに対し、人類等が理性によって形成する「社会」。
 
「種」という集団は、「種」の進化のために弱肉強食により「個」を当然に犠牲にしてきました。
一方「社会」という集団は、「奴隷制の廃止」や「弱者への福祉」や「基本的人権」等、
「個」を守るという特徴を有するようになっています。
一進一退はありますが、「社会」は人が真に望む「与える」方向に進化をしているのです。
 
仏教では、以下のような説話があります。
皆さんもご存知かもしれませんが「長い箸」というお話しです。
 極楽でも地獄でも、中の住人は非常に「長い箸」を使って食事をします。
 地獄の住人は、箸があまりにも長いため自分の口に食事を運ぶことができず悪戦苦闘します。
 一方、極楽の住人は「長い箸」で、他者の口に食事を運んであげました。
 そうすると、自ずと自分の口にも、どなたかの好意により食料が運ばれてくる訳です。
 
死後の世界に、極楽や地獄があるかはわかりませんが、
現実社会が「与え」あう方向に、より進化すれば、
この生きている世界においても、
極楽のようなユートピアを実現することが可能だと、私は考えます。