人生を幸せに生きるための仮説(その3)


 
人生には、深い深い霧がかかっています。
360度どこに向かったらよいか、皆目わかりません。
そんな深い霧の中、人々は手探りで進みます。
ただ見えるのは、周りの人々の歩みだけ。
周りに見える人々の群れに近づくのか距離をとるのか、
いろいろな歩き方ができるでしょうが、
灯台のような道標が存在しない以上、
どうしても相対的に歩くしかない訳です。
 
しかし、人類はそんな霧の中に灯台や道を創ってきました。
「宗教」然り、日本の「学歴社会」然りです。
 
無宗教の日本においては、「学歴社会」という道しかありません。
この道は国家反映に繋がるかもしれませんが、
当然、個人の幸せに繋がる道なんかではありません。
所詮は、弱肉強食に基づいて作られた道なのです。
「日本人は宗教がなくて、よく生きていけるな」と
「宗教」を持つ国の人が心配するのも道理なのです。
 
さて、伝統的な「宗教」を持つ国々の人は幸せなのでしょうか?
なるべく多くの個人を救おうとする宗教。
実際に「幸せ」に生きている信者の方も多いと思います。
しかし、この世に完璧なものはありません。
「宗教」も、「宗教」自身の存続のために活動している節があります。
「種」や「DNA」が「個」を犠牲にして反映しているように、
「宗教」も「個」を犠牲にして反映する側面を持っているのです。
宗教戦争自爆テロは、最も典型的にこのことを物語ります。
諸行無常」。
できた当初は、どんなに優れた仕組みであったとしても、
時と共に、また環境の変化と共に、適応障害を起こし劣化します。
また「宗教」は、解釈という名の下、
時代時代の指導者に都合のよいように修正されていくものです。
「宗教」は、「個」にとって心強い灯台ですが、「真実」の灯台ではありません。
場合によっては、「個」の幸せの方向とは180度違う方向に導かれることさえあります。
イスラエルで過去に、こんな事件がありました。
18歳のパレスチナ女子高校生が自爆テロを起こして亡くなったのです。
そして、自爆テロに巻き込まれて同じ女子高校生の17歳のイスラエルの少女が亡くなりました。
突如として、二人の若者が持つ無限の「未来」が閉ざされたのです。
 
所詮、他人の作った灯台や道に、「考え」なしにそのまま乗っかってはダメなのです。
灯台や道は利用するものであって、支配されるものではありません。
 
どうしたら、幸せに生きることができるのか?
私の出した答えは「考える」ことです。
仏教の「悟り」のように、個々人が「考えて」気づくしかありません。
 
人生において、全ての人は、スタート地点もバラバラ、持っている装備もバラバラです。
スタート地点とは、「生まれた環境」。装備とは、「与えられた才能」です。
多くの人が渡れない谷があったとしても、
ハングライダーを持っている人には渡れたり、
逆に、多くの人が何気なく歩ける砂利道であったとしても、
靴を持たない一部の裸足の人々には苦痛の伴う道となったりします。
 
こんなバラバラの状況の人たちに対して、
一つのマニュアルでは対処できないのは当然のことです。
もちろん、先人達の努力のお陰で、
利用可能な参考情報は探せば山のようにあります。
しかし、参考情報はあくまで参考でしかなく、
個々人が、
「今自分はどこにいるのか?」
「自分はどんな装備を持っているのか?」
「自分はどこに向かうのが幸せなのか?」
を全て「考える」必要がある訳です。
 
「宗教」のような灯台は、「ゴール」しか示せず「道筋」は示せません。
なぜなら、「スタート地点」や「装備」など、人には個人差があるからです。
 
私は個人として、このブログに、
今自分がどこにいて、どんな装備があり、どこに向かうことが「真」なのか、
「考え」た結果を記したいと思います。
あくまで個人の「考え」た、あるべき「ゴール」と「道筋」ですが、
この思考のプロセスをネットに記録することで、
深い霧の中、「宗教」のような時代遅れの「ゴール」ではなく、
自分だけの「真」の「ゴール」を探す人々の一助となれば幸いです。
 
実は今日は、前回の続きで「怠惰」⇔「努力」の軸について描こうと思ったのですが、
話が脱線してしまいました。
次回のブログで、お話ししたいと思います。