人生を幸せに生きるための仮説(その4)

ここ数回のブログでは、私の中の人生の仮説を整理してシリーズものとして記録しています。
さて、今日も始めましょう。
 
人生の本質を捉えようとすると、
結局、人の生き方というのは、以下の2軸で表現可能だと考えています。
すなわち、
(1)「奪う」⇔「与える」の軸
(2)「怠惰」⇔「努力」の軸
の2つです。
そして、これら2軸が組み合わさってマトリクスとなり、
人生のあり方は、以下の4つの象限に分類できます。
(1)「奪う」×「怠惰」
(2)「奪う」×「努力」
(3)「与える」×「怠惰」
(4)「与える」×「努力」
 
「奪う」⇔「与える」の軸については、以前のブログで説明しました。
ここでは、「怠惰」⇔「努力」の軸についてお話をしたいと思います。
 
まず、私は「努力」を「投資」と定義します。
「投資」とは、最終的に得られる「リターン」を予期して、
先に「資源」の払い出しを行う行為です。
人生における「資源」の払い出しとは、
「時間」や「お金」や「心」の消費となります。
当然、何かしらの「リターン」を予期できなければ、
人は進んで「努力」はしません。
「努力」が苦しみであることは、紛れもない事実なのです。
ですので、その先に得られるリターンを明確に確信できる人のみが、
「努力」を実行できることになります。
この点において、人は「努力できる人」と「怠惰な人」に分かれるのです。
ちなみに私は、「怠惰な人」に属します。
 
「努力できる人」は、自身の才能や自身の人生を信じられる人です。
生きてきた中で、成功体験の一つや二つを持っています。
子どもの頃に、親が意識してそういった体験を積ませる場合もあります。
対して、「怠惰な人」は、基本自分の人生を信用していない人です。
過去の失敗体験がトラウマとなり、
自分には輝かしい人生がやってくるとは本気で思えない人々。
子どもの頃、親からの叱責を受け続けた人もいるでしょう。
こういう人たちは、「努力したい」「努力が必要だ」と頭では思っていても、
心の底で「努力」の「苦しみ」を回避しようとします。
「リターン」のない、まさにムダな「努力」と最初から認識してしまっているからです。
 
しかし、当然のことながら「努力」ができないと、「幸せ」はつかめません。
マズロー欲求段階説というものがあり、その説によれば、
「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定されます。
ウィキペディアこちら
平たく解釈すると、人には「自己実現」したいという最も高次な欲求があり、
自己実現」を達成すると人は幸せになれる、ということです。
しかし、「自己実現」にチャレンジできる人には資格が必要となります。
その資格とは、「自己実現」より低次な欲求を満たしていることです。
詳しくは、ウィキペディアを参照して頂きたいのですが、
例えば、餓死等生命の危険を感じるような状況では、
自己実現」よりも食欲が優先されますし、
コミュニケーション障害で社会に適応できない人々も、
やはり「自己実現」よりも「コミュニティの一員である」という実感を先に望むというのです。
 
自己実現」という言葉は普段使わない言葉ですが、
これも平たく言えば、「努力できる人となる」ということです。
そう考えれば、マズロー欲求段階説から見ても、
「努力できる人」と「怠惰な人」に、人間は分かれるという解釈が成立します。
私は、「努力できる人」は高い資質を持つ素晴らしい方々だと思います。
しかし、「怠惰な人」を「怠け者」として人格を否定する風潮には異を唱えたいです。
この資本主義社会においては、「怠惰な人」は既に社会から制裁を受けている訳ですし。
 
私は、人生の生き方の軸として2軸を提唱しました。
繰り返しになりますが、
(1)「奪う」⇔「与える」の軸
(2)「怠惰」⇔「努力」の軸
の2つです。
実は(2)の方は、私が提唱するまでもなく既に当たり前の概念です。
しかし、私は「努力」するだけでは、幸せに届かないと考えています。
「努力」して獲得できたもの(金、能力、知恵、心等)をどのように使うかが、
幸せな生き方を実現する両輪のもう一つの車輪なのです。
 
なぜか巷ではあまり注目されていませんが、
マズロー欲求段階説には、「自己実現」の更に上の段階が存在します。
それが、「自己超越」の段階です。
これも詳しくはウィキペディアを読んで欲しいのですが、
私なりに平たく解釈すると、
「自己」の利益のために生きてきた人が、
「自己」も含めた「他者」まで利益の対象を拡大するということです。
「自己超越」は、最高次の状態とされています。
 
そして、この「自己超越」を私の言葉で平たく言うと、「与える」になる訳です。
ところで、一点私はマズローと意見を異にすることがあります。
この「自己超越」=「与える」という素晴らしい境地は、
なにも「自己実現」の段階に入った人間だけの特権ではないということです。
 
むしろ、「自己実現」による成功を成している人よりも、
自己実現」できず挫折に苛まれている人の方が優しかったりします。
少なくとも私は、今までの人生でそういう人たちと多く出会いました。
 
整理します。
私の提唱する生き方の2軸は、
マズロー欲求段階説に無理やり当てはめると以下のようになります。
(2)「怠惰」⇔「努力」の軸
 マズロー欲求段階説の「生理的欲求」から「自己実現」までのピラミッド。
 この軸は縦軸としてイメージするとよいかもしれません。
対して、(1)「奪う」⇔「与える」の軸
 この軸は横軸です。
 マズローは、「自己実現」の更に上に「自己超越」をあてはめましたが、
 「与える」軸は、「自己実現」のピラミッドの高さとは全く関連しません。
 子どもの優しさに触れたことがある人なら、このことは容易にイメージできると思います。
 ですから、「努力」×「与える」も成立するし、
 「怠惰」×「与える」も普通に成立します。
 
現代の資本主義社会において幸せになれる要素として既に重要視されている「努力」。
私は、これに加えて「与える」を提唱している形になります。
いくら「努力」できても「与える」ことができないと、
「幸せ」を高く維持することはできません。
「努力」して得た「優越感」等の「快楽」は、「心」が真に望む「幸せ」とは違うからです。
 
マズローは、「努力」できてから「与える」にたどり着くという道筋を示しました。
私は、この道筋の他にもう一つの道筋を示したいと思います。
すなわち、「与える」ことができる状態から「努力」を成し遂げる道筋です。
この道筋については、次のブログで引き続きお話をしたいと思います。