人生を幸せに生きるための仮説(その5)

どうしたら、幸せを手に入れることができるのか?
私の「青い鳥」探しは、まだまだ続きます。
 
さて、「青い鳥」を捕まえる私なりの算段を、
今まで4回、シリーズものとして記録してきました。
 
以下、これまでの粗筋です。
 
人生の本質を捉えると、人のあり方は以下の2軸で表現可能だと考えています。
すなわち、
(1)「奪う」⇔「与える」の軸
(2)「怠惰」⇔「努力」の軸
の2つです。
そして、これら2軸が組み合わさってマトリクスとなり、
人生のあり方は、以下の4つの象限に分類できます。
(1)「奪う」×「怠惰」
(2)「奪う」×「努力」
(3)「与える」×「怠惰」
(4)「与える」×「努力」
これらの人生のあり方のうち「幸せゾーン」は、
(4)の「与える」×「努力」です。
「与える」ことが何故幸せに繋がるのか、
「努力」が何故幸せに繋がるか、は
過去のブログ(「その2」「その4」)をご覧下さい。
 
粗筋はここまでです。
 
さてどのようにすれば、この「幸せゾーン」に突入できるのでしょうか?
今回は第5回目として、「努力」を行うための方策を模索します。
 
前回のブログで、「努力」は「投資」であると描きました。
「投資」だと考えると、
親や会社から「強制」されて成される「努力」というものは存在しないことになります。
「努力」が「投資」であるならば、
「努力」とは、自分の「リターン」のためのみに成される行為だからです。
ですから「リターン」への自身の「期待値」の程度が、
「努力」が成されるか否かの分かれ目となります。
 
健全に人生に対する高い「期待値」を持ち、健全に「努力」できる人は「幸い」です。
しかし、人生の道は平坦ではない。
悪意すらある様々な障害に出会い、挫折して心が折れてしまった人も少なくないと思います。
 
私は、健全に人生に「希望」を持っている人も、挫折により「絶望」している人にも、
全ての人がナチュラルに「努力」できる道がないか、考えてみました。
そして気づいた一つのアイデアをここに記したいと思います。
 
ヒントは、日本一修行の厳しいお寺の「永平寺」です。
永平寺」では、毎朝修行僧の方々が心を込めに込めて「掃除」をします。
「掃除」とは、お礼を言われることのない「善行」です。
通常の「善行」には、相手から感謝の意を示されたりと、
ある程度形の見える「リターン」があります。
しかし、「掃除」は他者のための「善行」ではありますが、
決してお礼を言われることのない日陰の「善行」なのです。
 
そんな、一見「リターン」のない苦行を、
修行僧達は毎朝誰よりも真剣に心を込めてこなしていくのです。
何故彼らは、そんなに真剣に「努力」を行えるのか。
私は、そこにやはり「リターン」があるからだと考えます。
「リターン」とは、「心」を磨くこと。
そして、その磨かれた「心」を死後に持っていくことです。
 
人間死んだら、生きている間に溜め込んだものは全て失われます。
「金」「名誉」「権力」、こんなものは死後持っていけない訳です。
古代エジプトや古代中国の王は、立派なお墓を用意して、
死後の世界にも「富」や「権力」を持っていこうと一生懸命画策したようですけどね。
 
しかし、「死後の世界にも持っていけそうかも」というものがあります。
それは「心」です。
現在の科学でも解明されていないこの「心」こそは、
「死後の世界にも持っていけそうかも」という淡い期待と直感をもたらします。
実際に「死後の世界に持っていけるかどうか」はわかりませんが、
淡い期待を持てるという点が重要です。
 
「金」や「名誉」や「権力」は、失ったり傷ついたりすると「苦痛」を伴います。
「金」や「名誉」や「権力」は、「快楽」だからです。
一方、磨いた「心」は他者に奪われたり傷つけられることはありません。
そして、磨いた「心」がもたらすものは「快楽」ではなく「幸福感」です。
 
永平寺」に話を戻しましょう。
以前NHKで観た、修行僧の方によって拭き掃除された廊下は本当にピカピカでした。
そして、きっと修行僧の方の「心」も
この廊下のように磨きに磨かれてピカピカなんだろうなと感じました。
 
この「永平寺」の修行僧の方の「掃除」のあり方は、
私たち一般人の「努力」にも応用できそうです。
すなわち、「金」や「名誉」や「権力」のために「努力」するのではなく、
「心」を磨くために「努力」するのです。
裁判にかけられ「嘘」をついている政治家達を見てください。
彼らは「権力」のために一生懸命「努力」して、一般人には成しえないことを達成しました。
しかし、彼らは「幸せ」だと思いますか?
 
私は、真に「努力」という投資を行うに値する「リターン」は、
「心」を磨くことだと考えています。
「心」は、「死後」も存在する永遠のものである(と錯覚できる)唯一のものです。
「心」は、磨けば磨くだけ着実に価値が増し、誰からも奪われない永遠の輝きを持ちます。
「心」は、生まれつき障害を持った方でも、優れた才能を与えられた方でも、
平等に磨く「チャンス」を与えられ、平等に磨いた分だけ価値を増進させます。
 
万人に用意された「努力」の「リターン」。それが「心」を磨くことなのです。
 
ただし、「努力」の「リターン」として「心」を活用するには、一つだけ条件があります。
「死後」を信じることです。
 
科学万能の時代に何を言っているか?と思う人もいるかもしれませんね。
しかし、このブログで繰り返し描いているように、
科学では「心」の正体(クオリア問題)を解明できていません。
クオリア問題については、過去のブログをご覧下さい)
「死後」がないと言い切ることは、逆に科学的な態度ではないと思います。
 
「心」を磨くとは、どんなイメージでしょうか?
人それぞれ、イメージしやすい物体で「心」を捉えればよいと思います。
イメージ物が思い浮かばなかったら、
永平寺」のピカピカに磨かれた山門や堂内の写真をイメージするのもいいかもしれません。
「永平寺フォトギャラリー」
ピカピカに磨かれた廊下を拝見しに、私も一度は永平寺を訪問したいなぁと思っています。
 
さて、私は「心」をどのような物体でイメージしているのか?
 
 「便器」です。
 
前にも描きましたが、私は会社のトイレを掃除する機会が多く、
「便器」を掃除しているうちに、あることに気がついたのです。
「心と便器は似ている。」
どこが似ているというと、
(1)「心」も「便器」も磨くものである
(2)「心」も「便器」も日常的に「汚物」で汚れる
の2点です。
 
「心」の「汚物」とは、
ストレスという単純な言葉では片付けられない、
生きることで生成される様々な「心」の澱です。
例えば、心無い言葉を他者から受けたときに「心」に生成されるもやもやしたものです。
怒りや憎しみも「汚物」でしょう。
 
「便器」の「汚物」と「心」の「汚物」は、非常に似ています。
いずれも、生きていれば否応なく生みだされるもの。
あの見た目や匂い等の「不浄感」もよく似ています。
自身から生成されたものなのに、とても「不浄」なものなのです。
 
最近私は、心無い言葉を他者からぶつけられると、
「心」である「便器」に、ドロドロとした黒い「汚物」が付着するのを感じます。
そして、「心」の中で、まず清潔な水を大量に「便器」に流します。
それでも落ちない頑固な汚れには、
柄つきのタワシで丁寧に心を込めて磨くことをイメージします。
そうすると、「心」である「便器」はピカピカになり、「心」は軽くなります。
 
そして「努力」にも、この「便器」を活用しようと思っています。
私にとって「努力」とは、「心」を磨くこと。
永平寺」の修行僧の方が毎朝廊下をピカピカに磨かれるように、
私に求められる縁のある「仕事」や「勉強」や「人助け」や「使命」を、
「心」を込めてピカピカになるよう実行します。
 
磨けば磨くほど平等に価値が上がり、死後にも持っていけるかもしれない永遠の宝。
私は、「心」の中の「便器」を誰にも負けないようなピカピカの状態にして、
「死」を迎えたいと思っています。
これが、私の「努力」の「リターン」です。
 
「便器」の話はさておき(笑)、
「心」を磨くということが、
「努力」の「リターン」として唯一無二に最適なことだと思いませんか?
 
他者を出し抜くための「努力」ではないので、
自分のペースで穏やかにナチュラルに「努力」を継続できるのです。
 
さて、結論を描きます。
「幸せ」になるために「努力」は必要不可欠。
そして、その「努力」が「心」を磨くための「努力」であれば、なお宜しいと私は考えます。
その「努力」は、直線的に「幸せ」に近づくことが可能な心地よい「努力」となり得るからです。