人生を幸せに生きるための仮説(おまけ)

「幸せ」とは何か?
 
この質問の答えがものすごい難しいのは、
このブログをご覧頂いている皆様にも同意いただけるのではないでしょうか?
 
現時点で、私はこの質問に答えられます。
 
「幸せ」とは、「真の自分」が欲するものです。
 
これだけだと何のことやら、わかりませんね。
「真の自分」を知るには、「偽の自分」を把握する必要があります。
 
「偽の自分」とは、「真の自分」を利用しようとするものです。
以前にも書きましたが、
私はリチャード・ドーキンス博士の「利己的遺伝子」という考え方に
大きな影響を受けました。
ウィキペディアこちら。私の過去ブログはこちら。)
「利己的遺伝子」の考え方によれば、生物の個体は「遺伝子」の乗り物に過ぎません。
「遺伝子」には、絶対的な目的があります。
それは、己の遺伝子パターンをどんどん増殖させ、この世界を己のコピーで満たすこと。
この目的のために、「遺伝子」は生物の個体を乗り物として利用します。
乗り物としての機能は、死なずに生きること、そして子孫を残すこと。
 
このために、遺伝子は「アメとムチ」を用意して個体を操ってきました。
「アメ」は快楽。食欲、性欲、独占欲、自己顕示欲、睡眠欲・・・
「ムチ」は苦痛や恐怖。死や痛みへの恐怖、快楽を得られないことの苦痛。
 
不幸な人とは、快楽を得られないことに苦しみ、死を恐れただただ生きている人。
だとしたら、全ての欲を満たせば幸せになれるのでしょうか?
たしかに、全ての欲を満たすことはものすごい快楽をもたらすでしょうが、
所詮は「アメ」なのです。
「アメ」は舐めていたら、いつかなくなる幻のようなもの。
「老い」や「病い」や「死」が来れば、いずれ必ず消えるのです。
快楽が大きければ大きいほど、その喪失への恐怖や苦痛も巨大になります。
そう、個体には結局のところ苦痛しか残らないのです。
 
どうでしょうか?
この筋書きの中に、「幸せ」は登場しませんよね?
この快楽を追い求める思考の中に居ては、「幸せ」の正体なんてわかる訳がないのです。
 
遺伝子が決して自分の味方ではないことは、なんとなく理解できたでしょうか?
遺伝子が「偽の自分」であると理解できたとき、
ようやく「真の自分」が心の中に居たことに気づくのです。
 
そして、次に行うべきは「真の自分」の声に耳を傾けること。
そうして聞えてくるのは、「真の自分」の悲鳴。
「自分は遺伝子に利用されているだけの存在。苦しみの中で生きる意味は何か?」
これに対処するのが、フランクル心理学です。
(過去ブログはこちら。)
フランクル心理学では、それぞれの人間の人生には独自の意味が存在しているとしており、
人が自らの生の意味を見出すことを援助することで心の病を癒せるとしています。
すなわち、「真の自分」の生きる意味をしっかりと見出すことが「幸せ」の第一歩なのです。
その意味を探す上で、重要な3要素が「態度価値」「体験価値」「創造価値」。
(これらの詳しい説明は、上記の過去ブログを参照してください。)
「態度価値」とは、心の中に「真の自分」がいることを実感すること。
「体験価値」とは、大切な人との出会い・別れ、旅行したり、感動する映画を観たりすること。
「創造価値」とは、絵や小説やブログを描いたり、仕事で自分のやり方を創造すること。
「快楽」に魅了されることなく上記の価値を増進させることが、
「真の自分」の欲するところなのです。
 
そうして私は、小説やブログを描くことを「創造価値」とし、
「与える」ことによる生命のつながりを実感することを「体験価値」としました。
 
(ここから先は、私の妄想です。おまけ編ということでお許しを。)
生命は元々つながってるものではないかというイメージを、私は持っています。
しかし、遺伝子によって生命は分断されて、
あろうことか「バトル・ロワイヤル」をさせられているのです。
(生命のバトル・ロワイヤルについての過去ブログはこちら。)
そんな狡猾な遺伝子の企みを看破し、苦しんでいる他の「生命」に救いの手を差しのべる。
これこそが、「真の自分」の欲するものではないかと考えている次第です。