「ララ物資」と「ケア物資」


 
「ララ物資」と「ケア物資」という言葉をご存知でしょうか?
現在70歳以上の方々なら、記憶している方も多いと思います。
 
これらは、支援物資という形で戦後日本に届けられた世界からの「善意」です。
今の豊かな日本では想像もできませんが、
当時は食料品や日常品、衣料品が著しく不足していた時代でした。
火垂るの墓」という映画を観た方も多いと思います。
私たちが当時の過酷さを知ることができるのは、今やあの映画からぐらいでしょう。
終戦は、たった67年前の話なんですけどね。
 
当時の過酷さの象徴として語られるのが、ストリート・チルドレン(浮浪児)です。
浮浪児は、戦前にも、もちろん復興後も、日本には存在しませんでした。
しかし、戦後には3万5千人もの浮浪児がいたそうです。
こちらは、浮浪児について書かれているページです。)
このように、他人に構う余裕もないほど日本はボロボロに疲弊していたのです。
 
もちろん、日本は戦後から奇跡の復興を遂げます。
しかしその影にあった忘れてはならない「善意」を、今日は紹介したいと思うのです。
 
「アイスクリームにチョコレート、日本のみんなに下さった、ララのみなさんありがとう」
これは、当時の子ども達が歌っていた唄のフレーズです。
 
終戦当時、アメリカにおける対外的な慈善活動は
戦災に見舞われたヨーロッパに対するものがほとんどでした。
そのような風潮の中、アメリカの
License Agency for Relief in Asia(略して「ララ」)という慈善団体が、
終戦から1年後、「ララ物資」という救援物資を船便で日本に送り始めました。
物資の主な内容は、長期間の輸送を考慮して脱脂粉乳と衣類だったそうです。
「ララ物資」をもとに学校給食で脱脂粉乳が出され、多くの欠食児童が栄養失調から救われました。
ちなみに、学校給食に牛乳がつくのは、「ララ物資」の名残なのだそうです。
この「ララ」の設立と活動の影には、
カリフォルニア在住の日系アメリカ人の浅野七之介さんの献身的な努力があったといいます。
(「ララ物資」のウィキペディアこちら。)
 
また、「ララ物資」から2年後、「ケア物資」が日本に届くようになりました。
この「ケア物資」は、アメリカの「CARE(ケア)」という組織からの救援物資です。
もともと「ケア」はヨーロッパ支援を目的としたアメリカの慈善団体でしたが、
ヨーロッパの復興の目途がたったことからヨーロッパ向けの支援を終え、
アジアに目を向けることになりました。
そして、まずアジアの中でも戦禍の最もひどかった日本に支援を開始したのです。
 
「ケア」の救援物資は、
「ケア・パッケージ」と言われるダンボールに梱包されてやってきました。
横浜港に陸揚げされた「ケア・パッケージ」は、郵便小包として発送され、
郵便局の窓口にて物資を必要とする人に引き渡されたのだそうです。
なんと「ケア物資」の恩恵にあずかった日本人は、
小中学生をはじめ1,500万人にのぼりました。(外務省ホームページの情報)
当時の日本の人口は8,000万人を超えたばかりですから、実に「6人に1人」以上の計算です。
当時のアメリカの人口は、1億5千万人。
戦争で反日感情が残るなか1,500万人分もの支援がなされたことに、私は素直に驚きました。
 
ところで、アメリカは戦勝国
戦後のアメリカからの支援の話には、複雑な思いを持つ人もいるでしょう。
しかし私は、「ララ物資」や「ケア物資」等の
アメリカ一般市民からの純粋な「善意」に感謝の念を覚えます。
 
「ララ」と「ケア」。
これらの組織は、今も世界で活動しているのでしょうか?
 
ネットで調べたのですが、
「ララ」については、現在も活動しているという情報を掴めませんでした。
しかし、「ケア」の方は「ケア・インターナショナル」として今も世界で活躍しているようです。
「ケア・インターナショナル」は独立した14カ国のメンバー国によって構成されています。
なんと日本も、今度は支援を行う側としてメンバー国の一つとなっているようです。
(ケア・インターナショナル・ジャパンのホームページはこちら
 
ホームページを見てみると、
世界中の支援を求めている国への募金を受け付けていました。
一口2,000円から可能なようですので、
本当に些少で恥ずかしいのですが一口寄付をしました。
寄付の先は、ベトナムの「HIV陽性者とエイズ孤児のエンパワーメント事業」です。
 
今から64年前、アメリカの方々から頂いた「善意」。
当時寄付をされた方々は、既にほとんど亡くなられているでしょう。
今回「ララ」と「ケア」を調べて、
私は、この「善意」の輪を未来に向けて回してみたいと思いました。
「ケア」を通じて、ベトナムの苦しまれている方々が少しでも楽になりますように。