はじめに「承認」ありき

はじめに「言葉」ありき
 
ヨハネ福音書の冒頭の「言葉」です。
私は、聖書を深く学習している訳ではないので、
深い意味はわかりません。
しかし、神の「光あれ」という「言葉」が全ての始まりである
ということだと、表面的に理解しています。
 
これは、神が完全なものであり、
神の「言葉」自体も完全なものであるから、
「光あれ」という「言葉」に呼応した「世界」が、
神の意図するとおりに変わったと考えることができます。
もしくは、「世界」が「神」の脳内の事象であるような
「神」≧「世界」という構図であれば、
「光あれ」という「言葉」に応じて、
「世界」は「神」のイメージとおりの「光あれ」という状態になるでしょう。
 
ところが、「人間」同士のコミュニケーションでは、こうは行きません。
例えば、私が「光あれ」と言っても、「はっ?何言っているの?」ってことになるでしょうし、
もし私の「言葉」を親身に聴いてくれる人がいたとしても、
「じゃあ、蛍光灯買ってくるよ」と言ってくれる人もいれば、
「そうだよね。今の世の中は暗い話ばかりだよ」と相槌を打ってくれる人もいるでしょう。
 
すなわち、「人間」の「言葉」は完璧ではないのです。
テレパシーのようなものが備われば別ですが、
「言葉」は不完全な情報の媒体ツールでしかありません。
 
しかし、世の中には自分の「言葉」が万能だと勘違いして、
「神」の「光あれ」のように「言葉」を発信する人々が結構います。
中には、「えっ?何?」と聞き返すと怒り出す人もいますよね。
 
人間同士のコミュニケーションで、最も重要なのは効果的に伝える技術ではなく、
相手の言おうとしていることをお互いに理解しようとする「優しさ」なのです。
 
これを「承認」と呼びます。
 
この「承認」をしようとしないで、一方的に「言葉」を伝えても、
相手に真意が伝わらないばかりでなく、
感情的なフィルターをかけられてしまうかもしれません。
 
「言葉」は与えるものではありません。
受け取ってもらうものです。
「受け取ってくれてありがとう」なのです。
 
ですから、相手の行動にまで関わるような深い何かを伝えたいときは、
まずは相手の考え方を「承認」する必要があります。
「承認」した上で「提案」するのです。
 
私の予想では、「魂」もしくは「命」は、もともと一つ。
しかし、遺伝子によって区分されて、バラバラにされてしまっています。
そうしたときに、別々の入れ物に入っている「魂」もしくは「命」を
「橋渡し」するのが「優しさ」だと思っています。
 
「神」は「世界」と一体だったから「言葉」だけでOKでしたが、
私たち「人間」は、まず「承認」という「優しさ」で相手と「橋渡し」してから
「言葉」を発信する必要がある訳です。
 
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