「生理的忌避」と「バベルの塔」

旧約聖書「創世記」11章に記述される「バベルの塔」。
このお話は、読み手によって様々な想いを想起させます。
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旧約聖書によると、その昔人類は同じ1つの言語を話していたのだそうです。
ある時、人類は協力して「バベルの塔」を建築しようとしました。
天まで届くような立派な塔です。
しかし「神」は、これを人類の「神」への挑戦と捉えました。
そして、「言葉が同じだから、こんなことをするんだ」と、
人類の話す言語をバラバラにしてしまったのです。
 
これを読んだ当時、「ああ、神様はなんて面倒なことをしてくれたんだ」と、
英語を苦手科目としていた学生の私は思いましたね。
まあ、このように「バベルの塔」の話では、
せっかく協力していた仲間達が、話す言語をバラバラにされて分断されてしまったのです。
 
しかし私は、「言語」よりも深刻に、人々を分断する要素を知っています。
それは、「遺伝子」によって仕組まれた「生理的忌避」です。
 
少し前に「人は見た目が9割」という書籍が注目されましたが、
悲しいことに人間は、
相手の本質である「心」よりも、見た目でその人の「価値」を判断しようとしてしまいます。
例えば見た目のよい整った顔立ちというのはどういうものかと言いますと、
全体集団の中で平均的な顔を指すのだそうです。
どこかのパーツが、人より特徴的だったりすると、
そこに目がいってしまい、人は「生理的忌避」を覚える。
また、外見だけでなく、イレギュラーな「振る舞い」をする人にも、
人は「生理的忌避」を覚えます。
 
これらは、「遺伝子」がもたらした融通の利かない安全装置です。
人類は大昔からずっと、感染する病気の恐怖にさらされてきました。
例えば14世紀のヨーロッパでは、
ペスト(黒死病)によって人口の3割の方々が命を落としたのだそうです。
そこで「遺伝子」は、
目の前の相手が「外見」や「振る舞い」に平均から外れた兆候を察した場合、
その相手が、感染する病気である可能性を考慮し、
本能的にその相手を忌避して、近寄らせないようにしました。
 
これが、「遺伝子」による「分断」。
この「分断」は、「言語」よりも、もっと深刻に人類を「分断」します。
「人種差別」「いじめ」「孤独」。
多くの理不尽な「苦しみ」の源泉は、この「生理的忌避」から来ているのです。
 
過去に何度かご紹介しましたが、
マザー・テレサのお話で、私の心に最も強く残っているお話があります。
それは、こんなお話です。
 
ある時、マザー・テレサは、道ばたで倒れている女性を見つけました。
その女性は全身ウジだらけで、誰の目から見ても、
もうすぐ消えてしまいそうな「命」だったそうです。
道行く人は、道ばたに倒れている彼女を避けるようにして通行していました。
しかしマザー・テレサは、彼女を連れて帰り、すぐに看病を始めたのです。
マザー・テレサは、彼女に懸命に声をかけ、献身的にできるかぎりのことをしました。
ですが残念ながら、しばらくして彼女は息をひきとったのだそうです。
 
その最後の瞬間、彼女はマザー・テレサにほほえみ「感謝」を伝えました。
マザー・テレサは、その時の彼女の「笑顔」を見て、
今まで見た中で最も美しいものだと表現しているのです。
 
このように、外見的な「美しさ」と内面的な「美しさ」は、一致しないことが多々あります。
いやむしろ、変な例えになってしまいますが、
外見が気持ち悪い魚介類ほど美味しいのと一緒で、
外見や振る舞いで「苦しんで」いる方ほど、
本当の美しい「笑顔」ができる内面の美しい方である可能性が高いような気がするのです。
 
今の時代、
人々は外見重視から、「内面」の本質に目を向ける傾向を強めているように感じます。
インターネットの発達も、その大いなる一助となっているようです。
「外見」「振る舞い」「性別」「肩書き」「年齢」といった全ての余計な情報を取り去って、
その人の本質である「内面」のみで交流ができる場の登場。
こういった場ができたお陰で、
人々は、バブルの頃のように自分をブランドものの服で着飾ったり高級な車を購入しなくても、
「内面」でつながれる心地よい「人間関係」を手に入れることができました。
 
遺伝子によって分断された人々の「心」や「魂」は、
インターネットの発達により、再び一つにつながるチャンスを得たのです。
 
どうですかね?
一つになれたら、もう一度、皆で力を合わせて「バベルの塔」を創りませんか?
今度は、
皆を「幸せ」にできるような、
様々な「理不尽」を蹴散らせるような、
皆が永い間夢見てきたような、
そんな素敵な「幸せ」の塔を創れたらいいなと思うのです。
 
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