「一期一会」の使い方

「一期一会」。
有名な言葉です。
その意味も、皆さんご存じでしょう。
 
ウィキペディアを見てみますと、
茶道の大家である千利休の、筆頭の心得だそうです。
意味は、こう書いてあります。
「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ない。
 たった一度きりのもの。
 だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう。」
また、こうも書いてあります。
「これからも何度でも会えるかもしれないけれど、
 もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人に接しましょう。」
 
「一期一会」とは、人生の「一回性」に基づいた教訓なのだと思います。
「一回性」とは、三省堂大辞林の言葉を借りれば、
「一回起こっただけで、再び起こることはないということ」です。
 
全てのことは、一度しか起こらない。二度と起こることはない。
私自身の体だって新陳代謝するので、昨日の私も既にこの「世界」にいない。
このように実は全ての事柄が、
その瞬間瞬間に新しく生成されていると捉えることもできる訳です。
 
全ての事象が、ゼロから生成して、私という意識が向くところに結実する。
量子力学の観点から言えば、そこに私の意識があることで、
確率の波が収縮して、目の前の事象が決定される。
そう。まるで、あなたのために創られた遊園地のように。
あなたがそこに来た時に、その場の全てのカラクリが動き出すのです。
 
上記のように「一回性」を意識すれば、
生きている全ての瞬間瞬間に「意味」を感じられるようになると考えます。
そして人は昔から、
その瞬間瞬間の事象に「意味」を見出すことを「縁」と呼んでいた訳です。
 
「一回性」とか「一期一会」とか、そんな小難しいことを、
日々の日常で考えている人はいないかもしれませんね。
しかし、無意識に「一回性」を意識している人は結構多いと思う次第です。
例えば、私もそうですが「散歩」を好む人。
こういう人達は、無意識に「一回性」を意識しています。
毎日同じ時間に同じ道を「散歩」していても、そこには必ず「一期一会」が存在する。
「風景」や「町の息遣い」、「道行く人々」「小鳥のさえずり」「雑草」。
「散歩」とは、そういった「出会い」との「一期一会」を楽しむということなのです。
だから、「散歩」は楽しいし奥深い。
 
効率だけを重視する人の中には、「散歩」をあまり好まない人もいるかもしれませんね。
だけどそういう人は、
「自分」から見て「意味」のあるものしか愛せない人のような気がします。
「一期一会」の考え方では、「意味」はその瞬間瞬間に常に生まれて来るものなのです。
自ら求める「意味」以外の「意味」にも目を向けようとするならば、
「感受性」のアンテナの感度は高まり、「セレンディピティ」も高まっていくはず。
(「セレンディピティ」とは、
 ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力のことです。)
 
「人生」も同様。
「一回性」を無意識に解する人は、自分にとってプラスになる人だけではなく、
ゼロやマイナスの人との出会いにも、「意味」を感じる。
だから、その人への「感情」とは別のところで、
出会ったその人を尊重することができる。
 
自分が「意味」があると感じた「出会い」や「事柄」にしか、
注意を向けないという姿勢は、
この深遠な「世界」の歩き方としては、もったいないような気がします。
「意味」は、全てに存在するのです。
キリスト教徒が「聖書」から学ぶように、
「人生」で学ぶべきことは、全て「世界」に書かれていると考えます。
私も「世界」から学んだことを教材とし、学びの結果をこのブログにまとめている次第です。
 
「一期一会」を意識すると、
「人生」の幅が広がり、「人間的成長」が加速するものと考えます。
全ての事物は、私たちの「気づき」のために存在すると思うのです。
 
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