「休息」の「本質」

休息を大切にしていますか?
私は、正直あまり大切にできていません。
 
休息というのは、バランスを取るのが非常に難しい。
特に「戦士の休息」は。
 
私は今、休息を2つにわけて考えています。
「戦士の休息」と「怠惰の休息」。
 
「怠惰」は、人間のあらゆるプラスの行動を阻害します。
私は欲望を、キリスト教の「7つの大罪」に準拠し、
7つ(「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」)に分解して
考えているのですが、「怠惰」もその一つです。
私はおそらく、素質として「怠惰」が人よりも強い。
 
仕事中などの「ON」の時はいいのですが、
「OFF」の時には気を抜くと「怠惰」の支配下になってしまいます。
「怠惰の休日」は、とても苦しい。
終わった後には、無為への後悔と疲労が残るのみです。
 
一方「戦士の休息」とは、次の「ON」に備える休息。
もしくは、直前の「ON」への「心」の「報酬」となる休息。
 例えば、仕事が終わって温かい布団にもぐる「幸せ」。
 それから、仕事が終わって1杯のビールを飲む「幸せ」。
 そして、「心」の鎧を脱ぎ捨てて信頼する大切な人々と語らう「幸せ」。
 
これらの「報酬」は一言で言うと、「解放」と表現できるかもしれません。
 
人間の「心」は、きっと「年輪」模様だと私は思うのです。
一本の大木のように、人間は「成長」と「解放」を繰り返して生きていきます。
「成長」だけをずっと続けてしまうと、ウドの大木のように危うくなってしまう。
私はそういう人々を心から尊敬しますが、同時に心から心配します。
それに、「解放」の時に熟成される何かがあると私は考えるのです。
だからおいしい「バウムクーヘン」のように、
「人生」の時間には「解放」をバランスよく挟み込む必要がある。
後でまとめて「解放」しようとしても、多分意味がありません。
年輪にはならないのです。
 
もちろん「解放」を追いすぎて、「怠惰の休息」が多くなってくると、
「成長」しない苦しみに襲われます。
全ての「生命」と同様に、人間は「成長」への渇望を持っています。
「成長」しないと何かから救われないかのように、
「成長」のない無為な時間は、私たちの「心」に「焦り」を生むのです。
子どもの頃は、「体」が成長する時期だから、無為に遊んでいても焦りが出ません。
しかし、大人になって「体」の成長が止まった時に、
無為な時間は「心」を浸食していくようになるのです。
 
ですから私たち大人には、質の高い「解放」の時間が必要となります。
併せて、「戦士の休息」と「怠惰の休息」をしっかりと見分ける必要もある訳です。
 
それでは、質の高い「解放」とは何か?
「戦士の休息」と「怠惰の休息」の違いは何か?
それを知るためには、「休息」時の行動を、
「本質」的な視点でウォッチする必要があるように思います。
 
この考察での「休息」の「本質」とは、
「休息」の「目的」が「解放」であるということ。
この一点を、念頭に置いて自身の「休息」をウォッチするのです。
 
例えば、どんな環境やどんな人々と一緒に過すと、
あなたは「心」から「解放」されるのでしょう?
そういったところを考えて、質の高い「解放」を理解する。
また、「解放」の終わりをしっかりと意識するようにする。
十分な「解放」が終わったら、次の年輪を刻むために準備しましょう。
そんな慌ただしい感じだと、大変そうに感じるかもしれませんが、
きっと「怠惰」に「心」を浸食されるよりも、
しっかりと「年輪」を刻む方が「心」は喜ぶと私は思うのです。
自分の「心」の「年輪」をしっかりとイメージして、
「解放」から「成長」に移る時の充実感をしっかりと見つけましょう。
 
「幸せ」な人生とは、素敵な「心」の「年輪」によって形創られる。
私は、そんなふうに最近考えています。
 
皆の「心」を安心させて優しい気持ちにさせるような大きな大木に、私はなりたいのです。

 
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